暮らしをつなぐ味噌煮 〜愛と知恵の郷土食〜

vol.3: 暮らしをつなぐ味噌煮 〜愛と知恵の郷土食〜(郡上藩江戸蔵屋敷)

郡上の家々でふだんから食べられている「味噌煮」。

その時にあるもの、採れたものをただ地味噌で煮詰めた「味噌煮」は、飽きのこない旨味と、家々によってバラエティあふれる食べ方がある。それは昔から山あいに暮らす郡上人たちが、あるものだけで生み出した愛と知恵の郷土食だった。

MONO蔵屋敷vol.3は、今もなお進行形の「味噌煮」を通して現れる、土地の記憶と風土をお届けします。

味噌煮という旨味とナゾの衝撃

味噌煮を食べた時の美味しさとそれを越えるナゾ感は、鮮烈だった。少しの水で地味噌をとかし、ただありあわせの野菜を煮詰めているのだが、旨い旨いとひたすらそれだけで白ご飯が際限なく食べられる。そこから、味噌煮がもつナゾというか魅力に引き寄せられていった。

なんでお肉が入っていないのか。どうしてお玉でとらずに箸でつつくのか。なぜ味噌煮をする鍋の下のカセットコンロの火は落とさないのか。もっとある。なんで郡上人は表立って味噌煮自慢をしないのか。なぜ飲食店で見かけないのか。味噌を煮詰めるという味噌汁のタブーを破っていられるのはなぜなのか。味噌が水でとかせるくらい、郡上の味噌がゆるいのはなぜなのか。どうして必ず漬物を入れたいのか。

そして何日も味噌煮をひきずりながら食べ続ける、足し続けるという郡上人のナゾ習俗によって、カレーかチョコレートのようにドロドロになっていく見た目。それと相まって味噌煮のナゾは深まるばかり。だが、この数年で一気に食べる機会が増え、謎の点と点がつながりはじめた。

発酵食

それに、折しもここ10年でおとずれている発酵ブームによって、味噌そのものが日本最大の発酵文化であることが再認識されている。そんななか郡上の味噌煮は、味噌汁とは違う味噌の食べ方、固有の地味噌文化としてとして関心が高まっていて、それを作ったり食べたりするワークショップやツアーが組まれているのだ。私もそうした動きに同伴しているうちに味噌煮愛が芽生え、味噌煮の出自が気になるようになった。

私自身、郡上に味噌煮という料理があると知るまでに、随分時間がかかったのは、それが決してよそゆきの料理ではなく、お店ではほぼ存在しないからだ。郡上ならではのオススメご飯は?みたいなことを他所の人に聞かれて紹介できるのは、お店の好みはおいといて、鮎の塩焼き定食やうなぎの蒲焼き、かつてのホルモン焼きである鶏ちゃん、牡丹鍋(猪)や最近注目されつつあるジビエ料理、要するに飲食店で食べられるものであり、畢竟お肉にしぼられていきやすい。つまり郡上の家庭でないと味噌煮は登場しない。

後に、味噌煮が唯一食べられるお店を知ることになるのだが、そこでも鮎や飛騨牛といった動物性たんぱく質には見劣りがするせいか、まさにそのお店で味噌煮にお肉が入ってないことを知って、お肉の入っているメニューに変えるという現場に出くわしたこともある。わざわざ観光地まで来たからには、ということなのだろうが、そもそも目にとまらなかったり、魅力的にうつらない可能性は十分に高い。

だが、ここで先に言ってしまうと、味噌煮は日々の、家庭の食事でありながら、肉汁のような極度の旨味をもった惣菜である。よそであれうちであれ、お肉を食べることを満足感の基準とするなら、その「リッチな味わい」(by 小倉ヒラク)に匹敵する料理なのだ。にも関わらず、ただ地味噌で煮るだけという、なんの料理技術もいらない味噌煮は、調理法ではなく、食べ方やそれを食べつないで来た背景に、歴史や多様性がありそうだ。

郡上藩MONO蔵屋敷vol.3は、郡上一円に広がる縁の下の味噌煮文化、というローカルを掘ってみたい。それがただかき混ぜてみるだけで終わるのか、暮らしをつなぐ郷土食という必然性の先に、グローバルで普遍的な自然観に触れるものとして立ち現れてくるのか、美味しいワクワクがおさまらない。

味噌煮というバラエティ

味噌煮は郡上の家庭にしかない。出会い頭に、味噌煮について尋ねてみると、ほとんどの郡上人が味噌煮を食べ続けていて、今日も食べました、という人が少なくない。そこで話題になるのが何を味噌煮に入れているか、である。

筆頭は「切り漬け」だ。三世代にわたる郡上人の家庭では、白菜とカブなどを塩で漬けた「切り漬け」がちょうどこの12月に仕込まれている。初めはほどよく浸かった「浅漬け」を味噌煮に入れることになるが、半月もすればだんだんと発酵して酸っぱくなってゆく。このひねてきた「切り漬け」をいれると、地味噌の渋味に酸味と甘味が加わって、味噌煮に複雑な味わいが生まれるのだ。

一方で、猟師でもない限り四つ足の肉や、鮮魚を手に入れることが難しかった郡上では、長らく味噌煮に肉が入ることがなかった。そのかわりとなっていたのが、畑のお肉ともいわれる豆腐だ。かつては味噌と同じく家々で作られていた豆腐は、貴重なタンパク源であった。

ムシロを二つに折って綴じた袋である「叺(カマス)」に詰めた塩をかけておくと、土間や味噌蔵の湿気を吸うことで、高濃度のニガリが滴となって垂れてくる。それを豆腐用の臼でひいてこした豆乳に入れて押し固めると豆腐ができあがる。この「昔ながらの豆腐」に、地味噌はほどよくしみて、ハンバーグのような肉々しい旨味を作り出す。この味わいも一度体験するとやめられない。

興味深いのは、戦後になって缶詰食品が出回ると、郡上の高鷲地域では「サバ缶」が味噌煮に入れられ始め、今でもそれを好んで食べるという。また大和地域では「ツナ缶」が入れられるなど、保存が利くうえに貴重な油まで摂取できる缶詰肉文化は、保存食の先輩であり出汁ともなる漬物文化とも響き合っている。缶詰は漬物と同じく物の送り合い、急な頂き物への返礼、交換物としても使われるほどに常備されていたことで、安定して食べ続けることができる、ということにおいて重要だったのだ。

またダイコン、ネギ、ナスといった旬の野菜は、味噌煮を埋める必須の素材となってくる。特に味噌煮を食べられる郡上八幡の飲食店「大八」の家庭では、味噌で黒くなったナスが鯨肉に見立てられていたため、味噌煮そのものを「クジラ鍋」「クジラ」などと呼称するなど、ここでも肉汁、肉煮としての見立てが生かされている。ナスは夏から秋にかけて半年近く食べられるうえに、味噌がよくしみる素材として好都合だっただろう。

味噌煮は、小さな土鍋やホーロー鍋で煮られるのだが、水分がとんで煮詰まり過ぎると、番茶などで水分と具材を加え続ける。お玉ではなく、箸でつつくので、最後にはドロドロになった味噌が鍋に残ることになる。よって翌日には、またそれに具材を加えて食べるという文化ができあがる。一説にはここから「味噌煮」を「ひきずり」という言い方が生まれたらしいのだが、この2日目の味噌煮に生卵を割入れるという話もよく聞く。白身がかたまってきたところで、黄身をつぶして頂くという具合だ。

こうしてみると戦後は肉食が入って来たこともあり、一見ご馳走のように見えるが、入れたのは白菜の菜っ葉だけとか、20代の女性から実家はネギだけです、なんて話も聞いた。つまるところ、この中山間地域で手に入れられるもの、自給できるものを何でも入れたのだということになる。そして、それをご飯にのせて食べたわけだが、米を今のように食べられなかった時代は、麦やヒエが多くを占めていたわけで、今、味噌煮を白米で何杯も食べられるというのは、味噌煮史上最も幸せな時代なのかもしれない。

繰り返すが味噌煮は家庭によって違う。最初に出汁となるうむし(煮干し)を入れるのか、その前にうむしの腹わたをとるのかどうかでも違うわけだから、いったん郡上人と味噌煮の話を切り出せば、そこでは各家庭の味噌煮のバラエティ劇場となるだろう。郡上以外では通じない話であり、わざわざ地元の人の間でも持ち出さない話題であるからこそ、郡上人から聞き出す味噌煮話はどこか面映(おもはゆ)く、恥ずかしさも見え隠れする。それでいて、誇り高く語る人もいれば、「これしかなかったんや!」という苦渋と懐かしさの表情も混じりあう。多忙な主婦にとっては、最も手軽な料理だったからこそ、いつだって味噌煮に頼ることができた。それは表向きには決して見えてこない郡上人のソウルフードである。

今この瞬間も、郡上人の無数の記憶と風土をぐつぐつと煮立たせていることが、味噌煮にしかない深い旨味をかもし出していることは間違いない。あなたの家の味噌煮には何が入っているのだろうか。

地味噌の生きた記憶と水の謎

郡上の味噌汁を飲んだときから、謎は深かった。魚介のような旨味?大豆というより肉?みたいにハテナが幾つも浮かんだ。そして、味噌屋に行けば味噌の隣にすっくと立つ「地たまり」のボトル。簡単に言って塩辛い醤油なのだが、最後に味を決めるのに、香りとパンチが欲しい時、地たまりにお世話になることが多く、私はラーメンの出汁にもよく使う。だが、実際「地たまり」が何なのかが分かっていなかった。

郡上の味噌は、おしなべてゆるく、やわらかい。畑中商店の味噌蔵にお邪魔して驚いた。茹でた大豆を麹でかばして、全体がモスグリーンに変化した後、なんと大量の塩水で漬け込むのだ。蒸した大豆ではないことも家庭在来の仕込みに近く珍しいのだが、一般的に知られた味噌は、煮豆に麹と塩をまぜてつぶしたら、味噌玉にして、エイヤッとばかりに樽に投げ込んで空気を抜きながら詰めてしまうものだ。日本の味噌作りのベースに水の出番はない、はずだ。

ところが郡上の地味噌はみ〜んな塩水で仕込む。白鳥町のいづやこうじ店、大坪醤油、丸昌醸造場。大和町の畑中商店。八幡町の清水みそ、大黒屋、ヤマニ商店。郡上の全ての蔵元が郡上の水で仕込む。それは、ただ郡上の水がよいからではない。

「たまり(醤油)をとるためやんな。」

麹で発酵した大豆が大量の塩水につけこまれること1年から1年半。熟成が長いために塩分濃度も高い。いよいよ味噌を取り出そうという樽の中に、かつて細長〜い竹籠が立てられていた。その名も「たて」あるいは「たまりたて」。畑中さんのところでは、その姿を見てもらうために、タテを入れた樽がある。

そのタテの中に溜まった上澄みがいわゆる「たまり醤油」なのだ。ということは、郡上では、味噌と醤油は同じ成分、同じ樽から出来るということになる。どうやらこれもかつての百姓の知恵らしく、発酵大豆を圧搾して醤油をとるというハードな作業よりも、一回の仕込みで来年の味噌と醤油を同時に作れるという方法こそが、暮らしをつなぐためのスタイルに適していたらしい。そしてこれは、奈良時代に中国から入ってきた豆や麦を使う植物系醤(ひしお)そのものともいえる。

今でこそ郡上の蔵元は、商品として味噌とたまり醤油を別々に作るものの、味噌と醤油を売るというのがしごく当然なのは、同じ樽で仕込む百姓の一石二鳥の方法が現在も生きているからに違いない。かつての笑い話に、たまり醤油をとりすぎて、味噌の味がしなくなる、ということがあったらしい。塩気も旨味もない大豆の残りカスがそのまま味噌になっては、さぞかしはりあいがなかっただろう。

もちろん細かい製法は蔵元によって違う。その多くが大豆と大麦を使うが、その割合や大麦を煎るのか煎らないのか。ふかした大豆と粉にした大麦をまぜる段階で麹をつけるのか、別々につけてから混ぜるのか。(つまり豆味噌とも麦味噌ともいえない)。先述の大豆を煮るのか蒸すのか。味噌の発酵を止める酒精を入れるのか入れないのか。そもそもどんな種麹を使うのか、などは問われることも答える機会もないというのが地元の味噌屋の世界であり、大豆の蒸し具合や発酵の具合は、それぞれの蔵元がもつあんばいで決まるものだ。

今回、動画で紹介した畑中商店は、ふだんから味噌作りワークショップや味噌煮を作って食べる会を開き、在来の製法について、郡上の地味噌の不思議と魅力を語り続けている。かつて味噌屋がなかった頃、村々では共同で、味噌の仕込みをしていたところが多かった。麹屋にそれぞれが作った大豆を醸(かば)してもらい、それを皆で一斉に仕込んでいた時代、そこではどんな話が咲いたのだろう。畑中商店さんでの味噌作りWSは、そんなひと時を彷彿とさせる。私もそこに引き込まれた一人だ。

さて、郡上に住み始めて食べることになった味噌汁が、肉汁のように感じた初感は今もって変わらない。そこには塩辛さではなく、この深い山間で生きるために必要なエネルギッシュな大豆の旨味、疲れを忘れさせる大麦の香味が、麹による発酵で凝縮されている。それに火をかけて土地の物を食べるという味噌煮もまた、身体感覚としての必然性、囲炉裏が暮らしの中心に存在した場から生まれたものだろう。

私たちは、知らず知らずその土地の記憶と風土で成り立っている。「暮らしをつなぐ味噌煮」が「暮らしをつないできた味噌と醤油」の物語でもあることは、知っておいてよいのではないかと思う。

「切り漬け」から見える種と風土のダンス

冬の味噌煮になくてはならない郡上の漬け物「切り漬け」。カブと白菜を切って塩で漬けただけ。だから「切り漬け」。濃コクな味噌煮に、これまた塩味の切り漬けを入れるのは、どうしてなんだろう。郡上人はしたり顔で言う。

「切り漬けは、浅漬けからだんだんひねてくるやろう。それをおいしょお食べるために味噌煮に入れるんやんな。」

入れる量は、鍋にひとつかみほど。乳酸発酵によって酸味が徐々に増してゆく切り漬けは、辛味のないサンラータンのような、酸っぱうまい複雑な味わいをかもし出す。もうこれなくしては味噌煮じゃないのでは、と思うほどに「切り漬け」の主役感が凄い。

確かに、辺境や極地の発酵食には、発酵し過ぎて腐っているんじゃないかと思わせる動物性の肉漬けが多いわけだが、郡上ではほんの少しの干し肉「身欠きニシン」を入れた麹による「ニシンズシ」、そして12月に漬けて春まで食べ続けるこの「切り漬け」、さらに夏越えをさせて半年間は漬けてから食べる「ひね漬け」が存在することを思うと、やっぱり郡上人の冬の間に食べ繋いでいくための術、保存食の層の厚さ、そして発酵してゆくことで生まれる酸味を称揚する自然観を思わずにはいられない。

一方、ここまでシンプルな浅漬け型の「切り漬け」が、おいしいね〜、となるのには、2つの具材であるカブと白菜がそもそも美味しくないと成立しないだろう、とあちこちで頂く「切り漬け」を食べながら思っていた。特に驚いたのが、郡上高鷲の地野菜「鷲見(わしみ)かぶら」で仕込んだ切り漬けだった。鷲見かぶらの水々しさ、その甘い清々しさに感動し、わが郡上藩江戸蔵屋敷の味噌煮セットは、鷲見かぶらの切り漬けの他にはない、と育てている現場をたずねることにした。

12月初旬、高鷲で地野菜やマコモなどの農作物の栽培をしている谷口くるみさんの畑ではちょうど鷲見かぶらの収穫期。マゼンタ紫か、躑躅色のようなピンク色の強い鷲見かぶらが、噴水のように葉を繁らせた頭を見せていて、それをガボッ、ガボッと抜いていく。ハート型の実から、小さなヒゲ根をそぐようにその場でカットして、ひとかたまりに葉ごと束ねておく。そして作業場に運んで葉と実を切り分け洗いに入る。

そこで実に興味深い試食が行われた。片方は無肥料で育てられた鷲見かぶら。もう一方は、有機肥料で育てられた同じかぶら。どちらも無農薬。先入観なく判断するぞ、と切られたそれを食べてみたら、圧倒的に甘くて水々しいのは無肥料のほうだった。意外なことに有機肥料のほうは、なんだか疲れたように味気なく、水々しさも断然劣ってしまう。これだけの大差が出るのには、鷲見かぶらが地野菜として、鷲見地区の土壌において種をつなぎ続けたからではないか、と想像してみる。野菜の味わいが土壌の状態で決まる、だろうからこそ、土を肥やそうするわけなのに、無施肥の自然栽培のほうが、鷲見かぶらのポテンシャルがめいいいっぱい発揮されてしまう。これは自然栽培という方法の恩恵というよりかは、鷲見地区の土でこそ種を繋いできた地野菜そのものの記憶に通じているのではないだろうか。12月中旬、カブラと同じく鷲見で育てられた白菜を一緒に切って全体の量に適した塩をまぜながら、樽に押し込み押し込み漬けてゆく。漬け終わってから重石をいくつかのせておくと、数日後には全体がすっかりつかるほど水分があがってくる。そうなると重しを減らし、早くもシャッキシャッキの浅漬けとして食べられる。手間としては、すごくシンプルで、大量の野菜を洗うのに水は冷たいが、そこで世間話をしながらの仕込みはとても楽しい。漬け込まれる野菜たちもすごくキラキラして、冬の準備ってこんな一体感から始まるのだと身にしみた。

そんな鷲見かぶらと白菜の「切り漬け」が、現在江戸蔵で販売中の「冬の味噌煮セット」に入っている。「切り漬け」は、いわば家庭かおすそ分けで消費されるため、実は郡上でも購入することは難しい。今回は漬物業もされる谷口さんの「丸谷庵」の仕込みに預かることで、江戸蔵から限定発送されることになった。そこから教えられたのは、地野菜がもつ種の記憶、そこにしかない土壌が生む味わいだった。

私たちが引きずっている、それしかないからこそ生まれた豊かさ。「味噌煮」が「ひきずり」と呼ばれざるを得ないものが、そこにある。土地と切り離せない生き物のダンス、目に見えないかぐわしさや味わいが煮え立つように蠢いていることを、私は「味噌煮」から教えられている。

冬の味噌煮は静かに語りかける

数年ぶりにまとまった雪が降り続いている郡上。雪がいったん降りつもると畑仕事はできなくなり、かつてのお百姓は冬の間、山仕事や炭焼きをして暮らした。1970年代から80年代を最後にそうした暮らしを続けていた祖父に、小学生から中学生の冬休みの間ついていって遊んだという方の話を聞いた。

二人はまだ夜の明けぬ暗いうちに家から5キロほどの雪深い道を、山の中へ入っていく。山小屋につくなり、祖父はそばの炭焼き窯で黙々と炭焼きを始め、孫はその山小屋で火を焚きつける。毎日持参しているのは、味噌と味噌煮のための具材。小さな鍋を火をかけ、少量の雪解け水に味噌をとき、その日その日に持ってきた具材を入れていく。はんぺんなども味噌煮に入れたり、あるときはヤマドリやウサギが罠にかかり、味噌煮に入れられたという。

祖父と一体何を話したのかは覚えてないそうだが、一日中続く火の番も、昼飯の味噌煮を仕掛けるのも子供には面白い遊びの一つだった。夕方になると、孫は白炭1俵15キロほどを縄で背負い、祖父は3俵を背負子でおねて、きた雪道を日暮れてしまう前に帰るという毎日だった。

動画「暮らしをつなぐ味噌煮」の最後に登場してくれた井上妙子さんは、山仕事に行った男たちが、昔の大きな缶詰の空き缶を使って味噌煮を火にかけて食べていたという話をしてくれた。そして子供たちは、親の帰りを待ちながら囲炉裏の火の番を、そしてやはり自分たちで味噌煮を作って食べたという。子供たちにとっても雪国の長い冬休みを過ごした象徴に、火の番と味噌煮があることは、私にとって決定的だった。味噌煮は、どのような状況であれ、あるものだけで食べつないだだけではなく、大人から子供でも用意できる食べ方だったのだろうと、はっきりと絵が想像できたからだ。そしてそれは美味しかったし、今でも「うんまいよ」とその人に言わしめるものだった。

砂糖や味醂などを入れて味噌煮を甘くしたり、胡麻油を入れて風味を出したり、煮詰めるのは美味しくない、といったあっさりめの味噌煮の食べ方も、時代が豊かになって色んなモノが買えるようになった、いわば味噌煮を調理するという発展だと思われる。もちろん、味噌煮には定番の鯖缶やツナ缶を入れるようになったのも、そうした物流の発展ではあるけれど、山村であればあるほど、味噌煮は濃く、調味料を加えることは未だにないようだ。

12月から3月にかけて降り積もる雪のなかで、物流も人流も、そして畑すらもが閉ざされると、人は保存食で食べ繋いだと、もうそれ以上掘ることがないように聞かされてきた。だが、郡上では味噌煮という常備食があったのだ。表立って語られることがなかったそれが、今俄かに注目を浴びているのは、それが食事という形で郡上人の生き方、来し方を表しているからだろう。全てが用意され、何でも選び取ることができるのだという慢心と錯覚が蔓延するこの時代。土地と切り離されてしまった孤独が誰しもに沁み渡ろうとするこの現代に、味噌煮はこの土地での穏やかな生き方、この土地のあたたかさを、静かに語りかけてくれている。

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