郡上おどりと生きるモノ作り〜城下町という場の伝承〜
目次
【郡上藩MONO蔵屋敷vol.2-1】
vol.1: 郡上おどりと生きるモノ作り〜城下町という場の伝承〜(郡上藩江戸蔵屋敷)
郡上おどりには、なくてはならない装い、郡上おどりの精神性や由来を物語るマインド・ギアとでもいうべきものがある。
今回MONO蔵屋敷vol.2で取り上げたのは、そうした「郡上おどりと生きるモノ作り」についてである。ドキュメントに登場する踊り下駄・手ぬぐい・鼻緒などをめぐるギアたちは、この城下町の暮らしや商いの変化の中で、様々にその命脈をつないできた。
そして今、それらをさらなる可能性のもとに、再創造させる職人や存在が次々と現れているのである。このタイミングには何かあるのかもしれない。コロナ禍により生の郡上おどりは2年連続行われなかったなかで、地元に生きる人にとって問いなおされざるをえないのが「郡上おどりと生きるとはどういうことなのか」という問いである。モノ作りにたずさわる人々からは、その問いの疾風を見極めながら、モノでしか届けられない土地の記憶、城下町ならではの風土を絶えず届けようとつとめていることを取材を通して熱く感じた。
おそらく私たちはある時代の大きな変遷に立ち会っているのだろう。そのような時だからこそ人々の挑戦には心打たれるものがある。ぜひ最後までご覧いただきたい。
呪具としての踊り下駄
郡上八幡に「郡上おどり」が存在することが、この町に独特のモノづくりを生ましめた。その一つが「踊り下駄」作りである。だが、その前にいったい「踊り下駄」とは何だろうか。「踊り下駄」を理解するには、二つの登り口がある。一つは、民俗学的な「踊り下駄」のもつ世界について。もう一つは、「郡上おどり」によって育まれた職人にとっての「踊り下駄」である。
まずここでは、郷土史家高橋教雄先生の云う「呪具」としての「踊り下駄」、民俗学的世界をとりあげてみよう。
日本での「下駄」の登場は、弥生時代の「田下駄」であるとの指摘の通り、田んぼに草などの緑肥を踏み込むために生まれた「田下駄」は、化学肥料が登場する戦後まで、郡上でも当たり前の農作業道具であった。奇しくも「郡上おどり」の踊り始めにして芯となる唄、古調「かわさき」はかつて田植え唄の歌詞から生まれたもので、その振り付けには、右手右足、左手左足が交互に前進するロボット歩きのような田下駄を操る仕草がとられている。
一方で、実際の踊り場で履かれている下駄は、昭和30〜40年までこちらも普段履かれていた二本歯の下駄がそのまま「踊り下駄」として履かれているように見える。ところが、これこそが聖なるはきもの、「呪具」であったという。
日本では、神事行幸の最前を歩く猿田彦から天狗、東大寺二月堂のお水取りで松明を持って走る練行衆が履く差懸(さしかけ)という下駄や、果てはゲゲゲの鬼太郎が履く下駄まで、異類異界の者が履く非日常のギアとして登場する。
一本歯であれ、二本歯であれ、そのどのシーンにおいても重要なのが、下駄を踏み鳴らす、という音連れに他ならない。その踏み鳴らす音が魔除けをし、地霊を鎮めるという呪術的行為だと考えられているのだ。古事記に登場するアメノウズメや、翁三番叟などを始めとする能楽、アジアから日本に入ってきた庶民の輪踊りもまた、足を踏み鳴らすことで祝い、祈り、神人ともに笑い合ったとある。
実は、「郡上おどり」やその源流である「拝殿おどり」も、この踏み鳴らすという行為は、そうした民俗学的由来を知らずとも、決して欠かせない盆踊りの一部として取り込まれている。ゆえに、どのような格好であれ、下駄を履いていないと張り合いがない、ましてや板張りの拝殿で踊るときには音がしないと意味がないとされている。
お盆が先祖を迎える非日常の時間を設定するなら、拝殿や神域で踊ることに加えて、その下駄の音連れが死者の訪れと重なり合う非日常の空間を演出したり、拝殿踊りの本懐である神下ろしをしたと考えられる。
だが、注目すべきなのは「郡上おどり」の踊り下駄は、よくある踊り連のユニフォームや民俗学的必携物として存在しているのではない。あくまでも夏の縁日的空間の装いとして選ばれながら、実際の踊り場で、誰も彼も知らぬうちに下駄を踏み鳴らすことが郡上おどりたらしめることに気づくことにある。
そうした郡上おどり独特の場の伝承に心を動かされた職人が、50年近く途絶えていた「下駄作り」を蘇らせることになる。それが「郡上木履」というお店の登場であり、そこにはやはり郡上八幡の老舗履物屋の店構え、商いの精神もまた伝承されるという物語が生まれることになっていた。
郡上産ヒノキの下駄作り
2014年に「郡上木履」を立ち上げた諸橋有斗さん。美濃市にある森林文化アカデミーに通いながら木工の可能性を模索するなか、おとなりの郡上おどりに魅せられた。それも踊りそのものというより、この城下町の中で、朝まで続く盆踊りを数百年も維持し続けていることに何より驚いたという。
そうするうちに、郡上おどりに欠かせない下駄が、仕入れて売られているという事実に気づく。林業の中心地であり、履物屋が5つも6つもある郡上八幡なのになぜなのか。聞いてみれば、年間に何万足も生産していた下駄作りの地であったにも関わらず、昭和40年代には一人の職人もいなくなっていた。時代は既に、下駄から、ズックや革靴などの洋靴に。全ての履物は仕入れに切り替わっていたために、現役の人による下駄作りを習うこともできなかった。
まずは、郡上の木で、自分の踊り下駄を作ってみよう、それが木工職人としての諸橋さんの一歩目だった。
どんな木から下駄を作り、木の目はどうとるのか。台のサイズや高さ、二本歯は差し込みなのか削り出しなのか。それらの要素は全て、郡上おどりで踊られることが前提のものである。次第に分かったのは、そうした踊り下駄に最も気を使っていたのが、郡上おどりに足繁く通う「踊り助平」たちだった。
中でもとびきり有名だった「踊り助平」がこだわったのが、どう音が鳴るのか、という点である。丈夫だが重過ぎない、それでもよく音が鳴る下駄の材、それがこれまでの下駄で使われた桐や杉ではなく、ヒノキだった。「郡上産ヒノキの下駄作り」はこうして生まれた。「地産地消のモノ作り」はただの社会的理念ではなく、そういう郡上おどりの場でしか生まれ得ない関係性のなかで育まれたのだ。
郡上木履は、2016年からは自らの工房を構え、今では一夏で1500足以上を売る下駄屋にまでなっている。ドキュメントの最後にある「郡上おどりが変わってゆくように、ものづくりをする自分たちもそれとともに変わってゆく」という諸橋さんの言葉には、このコロナ禍の波だけではなく、50年近く途絶えていた下駄作りが、今では郡上おどりの観光客から踊り助平までもを含んだ買い手とともに蘇らせることができた、という柔軟な経験の自負に満ちている。
そんな諸橋さんを、これまでの履物屋さん、下駄屋さんはどう見ていたのだろう。諸橋さんが、郡上で下駄屋を始める時、紹介されて門を叩いたのが大正時代に開業した「杉本履物店」だった。
下駄屋のある城下町
杉本はきもの店は、現在でも下駄屋として営業を続けている履物屋である。その理由をたずねたら「時代の波に乗り切れんかったんやんな。」と店主の横枕幸子さんが笑って言う。先代である父は石徹白の出身で「杉本」という名字を屋号にしたため、結婚して変わった幸子さんの、横枕って名前を知る人は少ないと言って、これまたおかしそうに笑う。
その先代は、明治四年創業の岸山履物店で大正時代に修行をしてから独立し、現在の大手町に店を出した。当時、城下町に10軒以上あった下駄屋が昭和30年代に廃業、または下駄作りをやめ、小売一本となるなか、雪駄や下駄などの履物メインで売り続けてきたのが「杉本はきもの店」である。
横枕さんに、下駄屋を続けるモチベーションは何かと聞いてみたら、「毎年毎年来てくださる方がおってくれるから。」だそうだ。50年以上前から三世代かけて遠方から見える人がいる。毎年毎年、夏の郡上おどりのたびに顔を出してくれる人がいる。そして、そういう常連さんのためだけではなく、下駄屋はただ下駄を売って終わりではないことを体現しているのが杉本はきもの店である。初めて踊りをおどる、下駄を履く人のための鼻緒の調節や、深夜3時4時でもずぶ濡れになった下駄の修繕を頼みに来る人など、盆踊り期間と徹夜踊りの4日間はまるまる、下駄の救急センターとなることを当たり前のこととして朝まで店を開けている。
「やっぱり気持ちよう履いてもらいたいでしょ。」
夏の間にバイトに来る孫娘や高校生の女の子たちは、最初はそこまでするのかと半信半疑でに眺めているそうだが、やがてそれこそが下駄屋の仕事なのだとやりがいを見出していくというのだから面白い。
さて、下駄を仕入れて売ることになってから50年以上が経とうとしていた時に、下駄を作って売ろうという諸橋さんが訪ねて来た。横枕さんは一言「大歓迎!」。そしてこの城下町にこそ店を出すよう強く勧めたのも横枕さんだった。諸橋さんは、横枕さんの商いの姿を見るにつけて、下駄作りではなく、下駄屋という商いを学ぶことになった。
私はあらためて、どうしてそのような下駄屋になったと思いますか、とたずねてみた。
「私は本当に喋るのが苦手でね、今から思うと嘘みたいですが(笑)、お客の前では何にも喋られん娘でした。」
だからこそ、ひたすらお客が何を求めているかというところに注力したと。特に「踊り下駄」というものの求めに気づいたのは、90年代。郡上まで高速道路が開通して、日帰りのお客さんが下駄も持たずに多く訪れると同時に、各地の踊り助平たちが「踊り下駄」へのこだわり、丈夫さと音を出すために様々な注文をつけるようになった。それにしたがって、仕入れの工夫と、踊り下駄のアフターケアこそが、お客さんとのつながりを生んでいった。横枕さんは、そこで初めて「踊り下駄」というものの存在を強く自覚したという。
横枕さんの話に、何度もうなずいている諸橋さんを隣で感じながら、私も深い感動を覚えていた。こんな朗らかに笑いながら、淡々と下駄屋を続けて来た横枕さんは、長年の鼻緒の調整で近頃腱鞘炎になった手首をさすりながら「ほんとうにこんな手では、はりあいない。やっぱり鼻緒をグッと締めれんとね」と残念そうに言う。だが、その商いの姿は「郡上木履」にしっかりと受け継がれている。
岸山履物店の先代、岸山春彦さんも息子さんが当主になってから、あらためて踊り下駄の新作が店頭に並び、踊り期間に深夜まで下駄のケアのために営業するその姿勢に時代の変化を感じている。「郡上おどりと生きるモノ作り」は、商いの姿勢と、下駄が持っている可能性をまだまだ開いていく。城下町の風景に、履物屋、下駄屋があることは、私たちが思っている以上に大きい。
手ぬぐいを刷る音が聞こえる町で
八幡城下町に履物屋、下駄屋が生き続ける一方で、戦後に郡上八幡で発展した地場産業がシルクスクリーン印刷である。
しばしば広告メディアで郡上八幡が「シルクスクリーン印刷発祥の地」と言われるが、印刷機そのものは、20世紀の初めにイギリスで生まれ特許がとられている。
だが、原理としては同じである型紙を用いて染付などをするステンシル技術は江戸時代から世界的に有名だった。それを戦前から戦後にかけて、日本のシルクスクリーン印刷機を「グランド印刷」の名で発明・製造販売したのが岩手出身の菅野一郎である。それに投資協力したのが旧美濃紙業所、現在も郡上に本社を構えるミノグループで、創業者の塩谷氏は、郡上八幡にシルクスクリーン技術者を養成する学校を開き、そこで学んだ職人たちが全国に巣立ったというのだ。
つまり人と機械を育てるという、日本のシルクスクリーン印刷界揺籃の地が、郡上八幡であったわけで、今もシルクスクリーン印刷会社は郡上に10社以上存在するのである。
それから約60年が経つ2012年、その郡上八幡にシルクスクリーン印刷と、城下町という観光地を掛け合わせることで生まれたのが、手ぬぐいのシルクスクリーン印刷体験のお店「タカラギャラリーワークルーム」だった。
それまで、職人の受注生産の世界であったシルクスクリーン印刷を、誰でも体験できるものとしたことは画期的で、タカラギャラリーで刷ることのできる第一のアイテムを「手ぬぐい」にしたことも、郡上おどりの物語を確かめてのことだった。とはいえ、店主の上村真帆さんも「郡上おどりや、踊り手ぬぐいを深く意識していたわけではなかったですね。むしろ、1メートルサイズの踊り手ぬぐいは、お客さんに教えてもらった」という。
店主の上村真帆さんは、大学でデザインやグラフィックを勉強し、海外に在住するアーティストたちとも交流を重ねるなかで、2009年にシルクスクリーン印刷によるプロダクトを販売するオンラインギャラリーショップを開設していたが、結婚後、夫のUターンによって郡上八幡に移住することになった。「自らの居場所づくり」と「サンプル工房」などの体験業が町に育っていたことが、郡上おどりとつながっていた手ぬぐいによるシルクスクリーン印刷体験という業態を生み出した。
手ぬぐい自体の商品が、郡上おどりのオフィシャル商品以外には皆無といってよかったことも関係したが、何よりも注目されたのは自分で刷ってみるというささやかな体験だった。実際には、お店が製作する版(季節ごとにデザインする絵柄)を選んで、配置を自分で決めて刷るわけだが、踊り助平に関しては身につけた時にどこに柄がどこに出るかを考えるという。通常縦90センチの手ぬぐいに比べて10センチ長い「踊り手ぬぐい」は、女性の浴衣の「だてえり」としても纏われるため、衣紋や襟にどう手ぬぐいの柄が出るかを計算して選ぶという話だから驚かされる。
そもそも60年代まで、下駄と同じく普段使いであった手ぬぐいは、頭に巻いたり、手拭きや物をぬぐったり、切れたものを簡易的に結んだりと重宝されたものだった。ただ「郡上おどり」という盆踊りの場では、かつて手ぬぐいで顔を隠す「ほおかむり」としての演出があった。お盆に帰ってくる死者を自らに宿すために、生者である顔を隠す所作こそが「ほおかむり」だったのだ。
また江戸時代には、武士は庶民の盆踊りに参加することが禁止されていたが、それを破って参加する武士が後を立たなかったことから、おそらく手ぬぐいで顔を隠すのは好都合だったのだろう。
こうした「ほおかむり」としての踊り手ぬぐいは忘れられつつあるが、郡上おどりの装いとしての「踊り手ぬぐい」は、自分で刷ってみるという体験によって、よりプライベートでお洒落の一つとして蘇えっている。タカラギャラリーは、郡上木履とのコラボによる手ぬぐいを作り、その手ぬぐいから鼻緒を製作するなど郡上おどりに特化したアイテムも販売しはじめた。
また、5.6月に郡上八幡の呉服屋さんで浴衣の反物を決め、下駄をつくり、自分だけの踊り手ぬぐいを刷る人が増え始めた。それぞれの体のサイズに合わせる仕立てが必要な浴衣は、踊りシーズンが始まる7月に注文するのでは間に合わない。ましてや5月に出る新作の反物は7月に入ると売れてしまっているからこそ、この初夏に郡上おどりの準備を、城下町を歩いてすませておくわけだ。
「そういう方が見えるのは、お店を始めるまで本当に想像してなくて」
そこはただの手ぬぐい屋ではない。シルクスクリーン印刷を体験するワークルームであり、今も観光体験の一つのアクティビティとして利用するお客さんが多い。そんななか、2020年にコロナウィルスが押し寄せ、郡上おどりは、オンラインは別として2年連続の中止となった。
「コロナ前の物凄い人で賑わう夏の踊り時期も大変だった。コロナ対策で人数制限をしないといけなくなって沢山の人を受け入れることができなくなったけど、でもこうやってゆっくりと丁寧な体験ができるのもなんかいいかなって」
郡上おどりのあるなしで、町の観光産業は大きな変化を強いられる。そのなかで、私たちはモノづくりの意味や楽しさ、モノが何によって作られてきたか、ということを立ち止まって考え直させられている。郡上おどりと地場産業を出逢わせることができた「タカラギャラリーワークルーム」。
そこで刷られる手ぬぐいの音が、今鳴っていることそのものが、手で刷ることをよりゆっくりと味わおうとするひとときが、この城下町の場をつむぐ存在として多幸感をもたらしていることは間違いない。
鼻緒がむすぶ人の手と郡上メイド
2018年の夏から創作和小物のお店「花篭」を開いている吉澤英里子さん。
実はその前からハンドメイドのお店を郡上に出していたが、そこだけでは表現できないものが、頭の上からつま先まで「郡上メイドで出来る和小物」というコンセプトだった。高校生の時からアパレルについて学び、どう作り人に届けていくかを実践して来た根っからの仕事人であった吉澤さんは、ウィンタースポーツを通して出会った郡上の夏場を見るなり、
「なんてもったいない!」
と叫んだ。郡上おどり・盆踊りの観光客が引きも切らないというのに、和装にまつわるお店が少なく、またほとんどの和小物の商品が仕入れに頼っていたからだ。これは作るっきゃない!と鼻息を荒くする吉澤さんに二つ目の出会いがあった。
「浴衣を作り始めたとき、鼻緒も作りたいってすごく思ったんですよね。でも自分の欲しい柄の鼻緒はもちろん売ってないわけですよ。」
ところがである。2015年、たまたま新町を歩いてたら、まだ自店舗を構える前の「郡上木履」さんが、ポップアップでカフェの片隅に出店していた光景が目に飛び込んで来た。自分の大好きなブランドの生地で作られた鼻緒の下駄が売っていたからだ。そこからは韋駄天のごとく動きの早い吉澤さんは、滋賀の長浜にある鼻緒の問屋さんを紹介してもらい、現地をたずねた。とはいえ、そこは代々の職人の世界。おいそれと作り方を教えてくれるわけではない。いっぽう吉澤さんも全くあきらめない。何度もたずねては全貌が明らかになるまで教えてもらい、鼻緒づくりに着手した。何がそうさせたのか。
「これなら縫って作って売ることが郡上でもできる!昔は、誰もが内職でやってきたことだから、新しい郡上の地場産業になるってことを思い描き始めたんですね。」
自らのアパレル思考が、郡上おどりと手仕事という風土が繋がった瞬間だった。だが、次の難題は、鼻緒の生地探し。作り方は教えてもらったが仕入先は教えてくれないわけで、資材探しに大変な思いをしたという。なんといっても鼻緒のメインとなるのは表の生地だ。ゆくゆくはモノもヒトも「郡上メイド」と思っていたときに「さをり織り」があるじゃないか、と気が付いた。
1969年、城みさをによって生まれた「さをり」は、手織り機によって生み出される自由なパターン模様、織り手の個性こそが尊重される世界だ。特に郡上では、社会福祉協議会「みずほ園」で働く人たちによって30年以上にわたって「さをり織り」が続けられ、その織り布は感性のキャンバスともなっている。
だが、下駄にすげられる鼻緒に使うには、感覚的な糸の色選び以上に、固く織り締められながらもヨレのない、丈夫で均質な状態が要求される。それを一手に引き受けるのが「みずほ園」の木田和裕さんである。私も初めての踊り下駄は、木田さんが織っているとはつゆ知らず、そうした原始的な彩りと端正な表情をもつ「さをり」の鼻緒に感動して買い、それを今なお履きついでいる。
「織り手自身の感覚で織られてるのがほんと素敵だなって。こういうさをり織りをマーケットに出していくのも大事なことだと思います。」
福祉施設であれどこであれ、縫われ織られた生地や商品を、適正な価格で仕入れたり、売ることが、モノづくりの基盤になることを吉澤さんは重くとらえている。そこには、モノ自体よりも社会的立場によって安く売られたり、そもそも市場に出ないことがしばしばあるからだ。吉澤さんは、そうした背景を認めながらも、必要なのは、マーケットと作り手の間に立つ人材を育てることだという。
そのために「郡上カンパニー」を通して共同創業者を募集する「郡上メイドな鼻緒づくり」というプロジェクトを2019年から始めた。すると郡上出身の女性がUターンし、現在も「花篭」の運営を中心に協働している。また、取材にうかがったとき、新たな縫子さんとの打ち合わせが終わったところだった。今「花篭」は、モノ創り作家から職人さんまでが次々と交差する場所になっているのだ。
「やりがいは本当に日々感じているんですよね。例えば私なんかも子育てのタイミングで一時的に仕事が中断したりとか。でもなんかちょっと空いた時間に打ち込めるような何かがあることによって、より子育てが充実したりとかするし、それぞれのライフステージによるキャリアの変化の中で、どうやって自分の役割を見出していけるのかなって。何かに100%になりすぎると苦しい時ってあるじゃないですか。その時にたまたま私が得意な手仕事を通して、楽しくね、そういったタイミングとかも乗り越えていけるといいなって。まあそういう人の姿を見てると嬉しいなって」
そうした想いは、お店に並ぶ「セパレート浴衣」や「踊れるポーチ」などこれまで「郡上おどり」の場に必要とされたかゆいところに手が届くような和装から、「水引きアクセサリー」や独自の生地による「ターバン」といった新たな商品が登場し続ける新鮮さに体現されている。女性を中心とした無数のエネルギーが、郡上八幡城下町プラザ前という、観光地のど真ん中の小さな町家「花篭」で開放されているのだ。
「新しく生み出そうとはしてますけど、郡上おどりっていう根っこがありますからね。」
その言葉の奥で、チクチクとひたむきに手を動かし続けている音がしている。それが、どこか郡上おどりのお囃子と相まって聞こえてくるのは、私だけではないはずだ。
モノを蘇らせる水脈のある町
これまで、郡上おどりのある八幡城下町において、もともと地元に存在していたモノや歴史を見出し、新たな物語をそこにつなぐことでお店を始めた、三者三様のモノづくりの姿を見てきた。最後となるこの第六章では、あらためてその三店に共通するこの城下町独特の場の伝承性について考えてみたい。
「郡上で初めて作る踊り下駄の鼻緒を、渡辺染物店の藍染でお願いしたんです。」
郡上木履の諸橋さんは、400年以上続く紺屋の15代目となる渡辺一吉さんに、鼻緒の生地の藍染を依頼した。履けば履くほど味わいの出る藍染の鼻緒は、それから郡上木履の鼻緒を代表する主力商品となり、その後絞りによる染め鼻緒も登場するまでになった。鯉のぼりや県重要無形文化財のイメージから、値段や敷居が高いと思い込んでいた「渡辺染物店」だったが、その依頼は意外にもすんなりと受け入れられた。
「浴衣や手ぬぐいは染めたことありましたが、鼻緒は初めてで。けど、下駄の木も染めも地元のモノで作るっていうのはいいと思いました。」
それも染めしろの少ない小さな鼻緒。しかし渡辺さんにとっては、神社の天幕や幟などの大きいものから、巾着などの小さいものまで一点モノを作ることができるのが紺屋なのだという。全く均一なものの大量生産はできないが、むしろ注文に応じて小回りの効くのが私たちの仕事なのだと。
とはいえ、かつて城下町に十七軒あった紺屋は、現在は渡辺染物店のみ。観光地としての城下町に飲食店やお土産屋、宿屋などが多いことから、のれんの注文は今でもあるが時代の変化は激しい。渡辺染物店を代表するカチン染の「鯉のぼり」もまた、家の庭であげられる人が少なくなっているため、絵に描いた鯉のぼりのタペストリー商品も作り始めた。また、以前は小物といえばポーチだけだったが、現在はガマ口やコースター、ランチョマットなど多くの小物類を染めるようになっている。そして、それらの仕立て、縫製仕事を「花篭」に依頼するなどの横のつながりが増えている。
「やっぱり郡上おどりの観光客が多いですから、そのシーズンに、踊る人にって必要なポーチとか、最近だとiPadなどの電子機器を入れる袋の染めを注文される方が多いですよね。サイズ指定があって、図柄をここに入れて、って言ってみえるお客さんもいますし。」
タカラ・ギャラリー・ワークルームでも花篭でも同じ話を聞いたところを見ると、あちこちで踊り助平と、モノ作り助平が混じり合っているのだろう。そうしてみると、この八幡城下町では、ただあるモノを選び買うという行為が飛び交っているのではなく、自分が想うモノを、職人やお店と一緒に作ってゆくという過程を楽しんでいる、その体験を買っているという風景が見えてくる。
それはどうやら郡上おどりの調子と重なるものだろう。自らの踊りや合いの手、下駄の音が、郡上おどりらしさや、唯一無二のグルーヴを生んでいるという奇跡的な体験に似ているのだ。モノ作りの現場が、工房や町家の奥にただあるのではなく、それが店先や土間の客人とのセッションを重ねることでモノが育ち、生み出されてゆくという協奏関係としての現場であり、八幡城下町なのだ。
MONO蔵vol.2のタイトルとした「郡上おどりと生きるモノ作りー城下町という場の伝承ー」はここにある。確かに郡上おどりがないときも私たちはかろうじて生きていけるかもしれない。だが、この共につくり、奏でるということを体で知っている人たちは、いつまでもこの城下町に引き寄せられ、共に作り出すことをやめないだろう。それこそがこの「城下町という場の伝承」なのであり、郡上木履やタカラギャラリーや花篭が見出したように、表面上は途絶えたものを何度でも蘇らせる地下水脈を、この町はいくつも持っているのに違いない。
今度は誰がその水脈を見つけるのだろうか。その幸福な出逢いを囃し、ともに味わいあうのが楽しみでならない。