郡上藩WEB蔵屋敷 Vol.2
2020.09.07
目次
紐解く「蔵開きのテーマ」
『芸能で立ち現れる 御百姓の声とからだ』
〜郡上宝暦義民太鼓からひもとく郡上一揆〜
「宝暦騒動」や「郡上一揆」を知っていますか?郡上の人なら聞いたことはあるかと思いますが、そうでなければほとんど知られていない歴史といえるかもしれません。郡上一揆とは、宝暦年間に郡上(当時の美濃国郡上藩)で行われた百姓一揆のことで、藩主による年貢収受の強化をきっかけに大規模に発展しました。農民は強訴や老中への駕籠訴や箱訴で抵抗し、結果として藩主の改易、幕府役人の失脚に繋がりましたが、農民側にも多数の犠牲者が出ました。
郡上の百姓たちはどのような思いで組織化し、どんな困難を乗り越えて直訴に参ったのか?それは一体どんな状況だったのか・・・そんな一揆の立役者「義民」たちの壮絶な戦いを、全5幕の太鼓の演舞にし、語り継ごうとしている人たちがいます。それが「宝暦義民太鼓」保存会のみなさまです。
組織化した百姓たちが隠れてこしらえた傘連判状の背後から義民のお面を被った人たちが登場し演舞する様は気迫がこもり、義民が乗り移ったかのような錯覚さえ感じてしまうほど。250年も前のことをこうして日々稽古に励み披露している彼らが「宝暦義民太鼓」を通じて今の時代に訴えようとしていることは何なのでしょうか?
今回の郡上藩WEB蔵屋敷では、保存会よりゲストをお呼びし、前回同様、司会の井上博斗、解説の高橋教雄先生とともに、宝暦騒動に見えるお百姓の姿を、そこからみえてくる郡上人の気質といったものをひもといていきたいと思います。
Vol.2 芸能で立ち現れる 御百姓の声とからだ 予告動画
vol.1では後藤さんが『やっちく』という唄の中で「郡上一揆」のことを伝えることが一番大事な気持ちとしてあるとおっしゃっていました。
郡上一揆。江戸時代の3000件あったとされる一揆の中で唯一成功した一揆と言われています。さて、郡上には郡上おどりのほかに白鳥おどりという盆踊りがあります。この白鳥おどりの発祥祭、および徹夜踊りのはじめには必ず、「郡上一揆」についてお伝えしている芸能があります。
それが郡上宝暦義民太鼓。郡上に、郡上一揆を伝える和太鼓のチームがあるのをご存知でしたか?この間、稽古場にお邪魔しまして演奏を目の当たりにしてきました。どういうふうに郡上一揆を表現しているかを、ゆっくりみなさんとひもといていきたいと思います。
案内人:井上博斗の想い
【終わりの始まり】
郡上の郷土芸能にまつわるもので目眩を覚えるほど越境的でショックな出会いの一つが「郡上宝暦義民太鼓」だった。鬼面をつけた百姓たちによる和太鼓演奏によって、郡上一揆という歴史物語を演出・伝承しようとするスタイルは類例がなく、その序幕は踊り唄「古調かわさき」を背景に江戸へ直訴に向かう百姓を表し、終幕は、鬼面を外した頰被りに野良着のお百姓が「げんげんばらばら」を歓喜のうちに唄い踊りめぐるという構成だ。
この最終章において、芸能でしか生まれ得ない場が立ち現れる。この最後に踊る者たちは誰なのか、というところこそ私が何度となく目眩を覚えきた終章なのだ。それは、かつて命を賭した宝暦義民の素顔にも見えるし、むしろ郡上一揆で生き残った無数の百姓たちにも、そして現代を生きる百姓たちでもあり、地元の人にとってはお馴染みの顔でもあるという幻惑・・・。
この錯視にみちた、それでも宝暦騒動を終えて安堵感のひろがる終演は、郡上の夏において、白鳥おどりの発祥祭と徹夜踊りの始まりにつながるという「終わりの始まり」に位置している。そのときその踊り場にいる私たちは一体どこの時空に立っているのだろう。
今回は、もう一度この宝暦義民太鼓が始まった1975年と郡上一揆の始まり1754年に立ち戻って、これまで見過ごされてきた様々な主役たちを追いかけてみたいと思う。そうしてみたときにあらためてこの「終わりの始まり」の深さが、宝暦義民太鼓保存会の皆さんが45年継承してきた声にならない実態が立ち現れるのではないだろうか。郡上人でなくとも自らの立つ場が揺さぶられるような緊張と期待で、来てほしくない気までするのが9月18日のオン・エアーである。
【生命をかけた問い・郡上一揆】
多くの人が郡上一揆について知っている。それは芝居になり映画になり、語り草になった。それは江戸時代にあった約3200件あった一揆の中で、唯一藩主の金森家が改易となり、藩政に癒着していた幕府の高官までもが断罪された連座事件であったからだという。一方で、百姓にとっては、郡上藩のほぼ全村にあたる百十三ヶ村が団結した全藩一揆であったからだという。
しかしながら一般的な認識となっていない史実はあまりにも多い。騒動の原因となった年貢の増税は、郡上藩特有のものだったのか。または増税は米年貢だけだったのか?そこから出された百姓の嘆願書十六ヶ条、後に加えられた十七ヶ条を合わせた三十三ヶ条の内容とはどんなものだったのか。そしてその嘆願書は結果的に藩主がお取り潰しとなったあかつきに、受け入れられたのか。ひいては実際の郡上藩と百姓への御沙汰・罪状とはどんなものだったのか。
その間にも無数の疑問がある。百姓による直訴、駕籠訴、箱訴のための藩越えはどのように可能だったのか。どうやって5年間にわたる裁判闘争、江戸往復費や滞在費を工面したのか。当時の百姓は、郡上藩の年間総石高の一割をこの郡上一揆の費用に当てているというのである。そして一揆に賛同する立百姓と、それにそわないことで寝百姓といわれて分裂する郡上一揆の複雑さ・・・。
まだまだある。八幡以北の長良川にあたる上之保筋、八幡以南の下川筋、吉田川にあたる明方筋などの連携はどのように行われたのか。現在も残る全藩一揆の証明でありシンボルともなった傘連判状という神紋様式をなぜ作成したのか。時代劇でも有名な駕籠訴という情報の先取りが必要な行動をどのように計画したのか。そして当時「宝暦騒動」を江戸中に広めた講釈師・馬場文耕の筆舌の実態、その先鋭さとはどんなものだったのか。あるいは、とうとう傘連判状にも全ての一揆資料にも残らないように守られた者の存在とは・・・。
実はこれらは全て当時の資料が解答を済ませている問いである。だが解釈は常に揺れているものともいえよう。それは私たちがどんな時代を生きているかということにおいて変化するからである。今回も『郡上宝暦騒動の研究』の著作がある郷土史家・高橋教雄先生に解説をお願いし、あまりこれまでふれてこられなかった宝暦騒動の登場人物の声をできるだけ拾うことにしたい。
いったい当時の御百姓意識と私たちはつながっているのだろうか。その歴史を越えた実感こそが、私たちが郡上一揆をどのように解釈し、伝承しようとしているかを常に自問させ、歴史のどんなささいな営みにも敬意が払われることにつながるに違いない。
来たる9月18日、この1751年から始まる宝暦年間の郡上へ、宝暦義民太鼓の方々、そして視聴者の皆さんと共に潜ってみることで、むしろ現代を生きる生命感覚をからだいっぱいに広げられるよう、郡上藩江戸蔵屋敷チーム一同で案内をつとめたい。
ゲスト紹介
今回、ゲストとしてお越しいただくのは郡上宝暦義民太鼓保存会に所属のお二人!司会の井上より紹介させていただきます。いやあ、プロフィールを読んだだけでも、今回も相当濃厚な座談会となりそうです。練習の風景の気迫も、ご覧ください。
【お一人目は、4代目会長の曽我孫治さん】
曽我孫治さんは、昭和10年白鳥町生まれの85歳。戦前の食糧難の時に、山菜採りや渓流釣りを覚えたという。昭和35年に白鳥町で美容院を開業し、現在も三世代に渡って営業されています。昭和50年に結成された「郡上宝暦義民太鼓保存会」の結成メンバーであり、現在の義民太鼓では語り手をつとめる。週一回の練習日では、「人の輪」を大事にする孫治さんの生み出す温かい空気が終始流れているが、和太鼓を演奏するために毎日1時間のトレーニングを欠かさないという自らに厳しい眼差しが光って見える。
【お二人目は、5代目会長の渡邉裕二さん】
渡邉裕二さんは、昭和33年白鳥生まれの62歳だが、とても還暦を迎えたようには見えない。3歳からスキー、10歳から鮎かけ、15歳から空手を始め、近代空手の始祖流派を汲む拓殖大学の師範に見込まれ推薦で入学。日本を代表する破格の選手の中でもまれたという。郡上のスキー場に務めるかたわら、32歳の時に父が結成メンバーだったこともあり保存会に加入。5代目会長となり、宝暦義民の魂を伝えるために会員の育成に励んでいる。
【三人目は解説者として、高橋教雄先生】
1945年生まれ。郷土史家。大乗寺住職。郡上市文化財保護協会会長・郡上史談会会長をつとめるなど、郡上地域の歴史研究調査と啓蒙活動を行う。主著に『美濃馬場における白山信仰』『郡上宝暦騒動の研究』、郡上の『歴史探訪』シリーズなど、著作・論文多数
2020.09.18 Vol.2 蔵開き配信URL
紡ぐ「蔵開きを振り返って」
郡上藩WEB蔵屋敷vol.2は、解説に郷土史家・高橋教雄先生、郡上宝暦義民太鼓保存会から前会長の曽我孫治さん、5代目会長の渡邉裕二さんを迎え、「宝暦騒動」の史実と「義民太鼓」の演出をひもときながら、当時のお百姓の主張が、現在を生きる私たちにどのように聞こえてくるのか、あるいは、私たちがどこまで当時のお百姓の意識に迫れるのか、というテーマの中で、9月18日に2時間にわたる座談会を生配信。20分の義民太鼓の演奏動画も最後に付帯した。
【歴史と物語の発生】
その座談会を振り返りながら思うのは、「宝暦騒動」「金森騒動」という固有名詞よりも、郡上では「郡上一揆」という名前で語られてきたことについてである。「宝暦時代の騒動」、あるいは「藩主の金森家の騒動」という歴史学・俯瞰的な眼差しではなく、それを起こした一揆勢からの名付け、それが郡上一揆といえる。ゆえに、この「宝暦騒動」が語り直され、語り継がれるたびに、それは私や郡上人にとっての「郡上一揆」、「郡上一揆という物語化」に近づいてゆく。
「郡上一揆」はこれまで、講釈「平良仮名森の雫」(1758.馬場文耕)によって語られ、戯曲「郡上の立百姓」(1965.作こばやしひろし)が演劇として、それを原作とした映画「郡上一揆」(2000.監督神山征二郎)があり、そして唯一地元メンバーによって和太鼓ミュージカルに仕立て上げられた「郡上宝暦義民太鼓」(1975~)として表現されてきた。
本稿では、史実を求める「宝暦騒動」と物語として伝承される「郡上一揆」のあいだをめぐることで、江戸藩政時代に唯一成功、あるいは勝利した一揆などと、しばしば言われることをあらためて問い直し、郡上人の見えざる精神性を探るものとしたい。
【騒動のきっかけは年貢率の改正】
宝暦4年(1751年)、郡上藩に雇われた官僚・黒崎佐市右衛門による領内巡検があり、「検見取り」の申し渡しが庄屋にあった。年貢となる米の税率計算が、これまでのゆるい自己申告制・定額の「定免」から、隅々まで検地を行った上、その年の坪刈りによって無駄なく年貢を徴収する「検見取り」に変わるものだった。宝暦期の郡上藩の米の取れ高は、江戸時代で最大収量を誇り、飢饉や天災がしばらくなかったが、豪商や庄屋と、本百姓や水呑百姓との貧富格差は激しかったと見られている。巡検では百姓たちの隠し田の摘発も多く、結果的に「検見法」は庄屋に申し渡された。この新法が、保守を大事にする百姓たちに即座に徹底抗戦をとらせることになる。そして、お米の生産によって自らの共同体に自治的安寧をもたらしているという「御百姓意識」は、初穂料としての神への献納が第一であって、役人に年貢を納めているのではないという誇り高さによって成り立っていた。無駄なく年貢を徴収しようとする合理的な新法は、その尊厳を傷つけるものであったともいえる。
【傘連判状の俗説と伝承】
新法の申し渡しから即座に、郡中の百姓の代表が集まる「郡中惣代集会」が郡上小駄良郷の南宮神社にて開かれ、「傘連判状」が作られた。約120ケ村のうち、113の村からなる団結の誓いで、後に村それぞれでも傘連判状が作られている。サークル状に署名するのは、徒党を組むことを法的に禁じられている手前、リーダーを誰か分からなくさせるためと俗に言われるが、この署名の様式「神紋」がそもそも円環状であるという見識もある。最終的には直訴人を中心に罪の咎を受けたために、「傘連判状」が行動派リーダーを隠したことには当たらないとも言えるし、組織統括のリーダーである帳元を隠し通したとも言える。「義民太鼓」は、傘連判状が染め抜かれた天幕をバックに演舞することで、義民の魂を降ろす「依り代」としてこの神紋を位置付け、一幕目の「農民決起・傘連判状太鼓」を演舞していることが分かる。
【直訴は誰にどうやってやる?】
郡上八幡城下へ詰め掛けた強訴によって三家老の免状交付があったものの、笠松の郡代から再び「検見取り」を申しつけられたために、江戸金森藩邸を手始めに、金森一門井上遠江守への訴状提出、老中酒井への駕籠訴、最後に評定所(裁判所)前の箱訴という流れを3年かけて行なっている。これに携わった者は、江戸での入牢や宿預け、郡内での幽閉や村預けといった仮処分に分かれていく。直訴人は江戸に着くとまず「公事宿」というフリーの行政書士「公事師」が経営する宿で、嘆願状の書式や直訴する方法について教えを請いながら、目的を達成するまでお金をかけて逗留し続けることになる。藩を越えて幕府に直接訴えることは「越訴(おっそ)」として違法なのだが、これを情状酌量的に受け止める「仁政」という概念が当時の幕府為政者にはあった。「義民太鼓」の二幕目「直訴太鼓」は、まさしく登城する老中の駕籠がわざと遅く進められる中、百姓の足腰の低い「駕籠訴」の場面を厳粛に演じているのである。
【嘆願状と芸能ジャーナリズム】
郡上からは、30人組や40人組という形で何度も直訴人やその付き添いを上京させ、十六及び十七ヶ条からなる嘆願状を直訴している。年貢率だけではなく、牛馬の通行税、私有林の扱いなど藩の税収・徴収・徴用への緩和を嘆願したものである。この直訴人たちと評定所を密かに取材して講釈したと思われるのが、講釈師・馬場文耕(1718-1759)である。講釈界で初めて寄席・番組を作り、世話物や時事批評で人気を博していた文耕は、「平良仮名森の雫」において、「宝暦騒動」を裁判闘争として翻案し、幕府の大老や家臣を沙汰によって成敗するという模擬裁判からなる構成にした。この演出が大ヒット、講釈本が飛ぶように売れたこともあり、文耕は江戸市中引き回しの上、獄門打ち首、版元も潰されてしまった。吟味中の件については、その行方や結果については云々してはならないがゆえの断罪。これは郡上藩においても同じで、江戸の藩邸で幽閉して直訴人を牢死させたこと、藩に強訴した村民を、幕府の沙汰が出る前に打ち首にしたことなども郡上藩改易(取り潰し)の理由となっている。
【仁義ある闘いから乱闘へ】
「宝暦騒動」は、ピケ(街道封鎖)や、詰め掛け強訴、そして越訴による裁判闘争と、藩の鎮圧に対していわば非暴力の訴え、陳情を行ってきた。藩の申し渡しに「背くでもあり背かぬでもあり」と言って牢屋に入れられた名主もいるくらいだ。しかしながら宝暦8年、一揆の首謀者とされた帳元・歩岐島村四郎左衛門が藩の襲撃に遭う。「帳元」の文字通り、一揆の組織資料を奪うことが藩の目的。百姓が決起してから四年経つ中で、一揆に賛同する立者(たてもの)と少数ではあるが寝物(ねもの)に郡内は激しく分断されており、3千人もの立者が駆けつける中、藩の足軽と行動を共にする寝者たちとの乱闘が「歩岐島騒動」である。死傷者こそ出なかったものの、村民同士が実際に互いを傷付けあうことになったこの事件こそ「義民太鼓」の第三幕目。演じ手が付けている「鬼面」が最も怒り、哀しみ、憂い、叫び、痛ましく見える「乱闘太鼓」は歴史を知れば知るほど、主張を貫くことの難しさが迫ってくる苦しいほどの見どころである。
【裁判結果ー何が勝利か成功か】
宝暦8年、二度の箱訴を受け、幕府評定所での吟味が始まると、郡上藩と幕閣との癒着は明らかとなった。年貢を定める藩政に幕閣は口出しや便宜を図ってはならない。同時期の石徹白騒動についても郡上藩は断罪され、藩主金森家が改易された上に、老中、若年寄、大目付、勘定奉行という幕閣中枢が罷免されたという点は、一揆史上唯一と云われている。一揆勢は、駕籠訴や帯刀による上京、歩岐島での乱闘や、徒党の禁を破ったこと、一揆における全ての行為を断罪され、16名の牢死、4名の獄門、10名の死罪、遠島1名、重追放6名、所払い33名という沙汰が下った。藩政への嘆願状は一つとして受け入れられなかった。新たに入部した青山藩政も、隠し田の摘発を推進し、検見取り法を採用しながら、時には限定の定免法を認めたりという治政であった。百姓たちにとって、藩主や幕閣の罷免は目的になかった。果たして、これが「勝利・成功した一揆」と言うことができるだろうか。
【史実は舞う・物語は踊る】
ところが「宝暦義民太鼓」は、足掛け5年をかけた郡上一揆の最後に、踊るのである。四幕目「天下泰平/踊り太鼓」。曲は郡上節の「げんげんばらばら」。はね、飛び、まわる百姓たちの面々は、いつの間にか鬼面がとられている。その素顔は、現代人とも、はたまた宝暦騒動で生き残った百姓たちにも見える。一体彼らは誰なのか、そしてなぜこの結果で踊ることができるのか。270年の時空をその表情から読み取ることが、「郡上一揆」を問い直すうえでの手がかりだと私は思う。
「宝暦義民太鼓保存会」は、10代から80代に渡る30人近くの会員からなっている。毎週の稽古と、いかに会の継続が難しいかというお話を聞いていると、当時の百姓たちが、一揆の年が明けた宝暦9年の夏には、やはり踊ったのではないか、という気がしてくる。私たちは何のために生きるのか。私たちはなぜ踊り続けるのか。結果ではなく、百姓たちが守ろうとしたことそのものを舞台にした「宝暦義民太鼓」をあらためて見直したい。