郡上藩WEB蔵屋敷 Vol.4

2021.01.24


紐解く「蔵開きのテーマ」


【今話題の集落 六ノ里を紐解く】
なぜ今も昔も、源流集落に人が集まるのか!?
土地にふれ、人に出会い紡ぎ出す。

今回のテーマは【今話題の集落 六ノ里を紐解く】。これまでは何か文化や芸能といったものに焦点を当ててきましたが、今回は【地域そのもの】にスポットを当ててみることにしました。だって、六ノ里(ろくのり)が今、キテるから!白鳥町の奥地、白尾山の麓にあるこの小さな集落で今、様々な取り組みが生まれているのです。外から注目されるだけでなく、郡上に住む私たちだって、気になって仕方がない地域。でも、その魅力がどこからくるのか、はっきりと言葉にはできず・・・。であれば、その魅力の根源を握っていそうな人たちに話を聞きにいき、紐解いていこまいか!というのがこのvol.4の狙いです◎前回までのゲストをおよびしての収録ではなく、WEB蔵屋敷初めてのロケでのお届け!ともに、六ノ里をぶらり歩きましょう〜♪



案内人:井上博斗の想い

「六ノ里」は、まず僕にとっては桃源郷というか、憧れの集落であり続けてきた。猪や鹿、アマゴや鮎料理、カブラ漬けやニシンずしなど、すこぶる美味しい郷土食を食べたのがここであり、唄の名人たちに幾人も出逢ったのがここだった。

集落の背にそびえる白尾山に登っては霊峰白山を拝み、郡上では珍しい夕焼けを眺めては遅くまで宴会をしたり、豊かな昔話を聞いたのがここだった。今回は、WEB蔵屋敷vol.4のロケを通じて、僕が出逢った六ノ里の方々とあらためて対談させてもらい、ずっと感じてきたこの集落の多幸感を「言葉」にしていくという産婆術のような旅となった。

言葉にするのは大変だった。大変だったけど、大きい大きい背中におんぶされているようなこの心地よい旅は、土地の知恵と可能性が、時代の波に揺られながらも、それを受け取る人の手の中で豊かに変化するということを確信させてくれた。なんという楽しい生き様だろう!

これからの生き方を探る人にぜひ見てもらいたいと思う。



本編プロローグ 【大坪良彦さんに聞く】

−人に尋ねよ 道を訪ねよ−

本編事前取材の様子

郡上藩WEB蔵屋敷vol.4で掲げた「今話題の集落 六ノ里を紐解く」にあたって、いつも土地の歴史のこととなるとすぐに電話したり、直接訪ねてはお話をうかがってきた大坪良彦さんに、あらためて話を聞いた。

大坪さんは戦後生まれで、小学四年生のときに買ってもらった写真機を手に六ノ里集落を撮り始めた珍しい子供、いわばカメラ小僧だったという。当時は、村内でもカメラを持っている人がいないわけではなかったが、家族の記念写真や旅行写真が多く、現在公民館や集会所に架けられている昭和40年代前後の祭りや集落の俯瞰景などの写真は、全て大坪さんが撮ってパネルや大判にプリントしたものである。高校生のときには、新聞の写真コンテストに入賞を重ねるようになり、日本の写真教育の母型を作ったという東京綜合写真専門学校に入学。卒業後は写真を仕事にしながらも、やがて大坪家を継ぐべく六ノ里に帰ってきた時、幼い頃に600人もの住民で賑わしかった六ノ里集落は半数を切り始めており、過疎化の一途を辿っていた。大坪さんは、自分がやってきた写真で「ふるさと再発見」と称し、六ノ里をはじめとする郡上の風物をあらためて撮り直しはじめたのである。

ところで、「六ノ里」という地区名の由来は、明治時代の初めに橋詰村、栃洞村、畑ケ谷村、折村、藤林村、高久村が合併し、六ノ里村となったことからきている。その後さらなる合併を経て、現在は郡上市白鳥町六ノ里、という行政区分になった。立地でいうと、岐阜県を南北に流れる長良川上流域、その支流である 「牛道川」両岸にわたる最奥の集落である。海抜は700メートル前後にのぼり、冬は雪深い土地だ。また、牛道川の豊かな水を生んでいるのが白尾山という1600メートルを越えるブナ林豊かな山で、集落の背後に鎮座している。興味深いのは、この六ノ里地区の川沿いに縄文遺跡が幾つか発見されているということ。典型的な河岸段丘上にある縄文遺跡で、水はもちろんのこと、山の幸と川の幸によっぽど恵まれていたんだろうと思う。

大坪さんは、こうした河岸から山にかけて歩き巡りながら、誰も気づかないような石組みや巨石、山を越えて隣村につながる古道の跡をたずねては撮影をしていく。郷土史や資料に残っていないものも大坪さんの探索範囲に入っており、これまで郡上の集落から霊峰白山は見えないと言われてきたが、かつての六ノ里集落からは白山がはるかに見えることを確かめてもきた。それに加えて、大坪家に残された資料や文化財級の遺物も、六ノ里を知る上で欠かせない手がかりとなっているのだ。

時は1221年。千葉氏の一族である東氏が地頭として郡上(美濃国山田荘)へ入部した。鎌倉幕府成立後に起こった天皇方の反乱「承久の変」の論功として、大坪氏や猪俣氏 (本編にも登場する猪俣元子さんの名字の由来)も、この13世紀に東氏の家臣として牛道川添いに入ってきたのである。これは現在もその子孫がいることで辿ることのできる関東からの最初の移住者であり、武士としての移入である。

特に大坪氏は、大坪流という馬術の家元の流れを汲んでいる他、15世紀に東常縁(とうのつねより)から和歌の古今伝授を受けた大坪基清(おおつぼもときよ)という歌人としても名を残している。時は室町時代、東常縁が、連歌師であった飯尾宗祇に古今伝授を行い、和歌を交わし合った時に、側について書記をつとめたのもこの大坪基清なのである。こうしたことは郡上人にもほとんど知られていない郷土史であり、その末裔にあたる大坪良彦さんは、江戸時代から確かめられる大坪家長男が代々名乗った「清兵衛」という名も、この「基清」から来たのではないかと推測している。

その江戸時代に入ると、大坪家は旅館を経営していた本百姓だったそうだ。なぜ、こんな山奥でそんなことが可能だったのだろう。当時、大坪家のある栃洞集落は、現在の大和町母袋や明宝町寒水に抜ける峠道の要所であり、郡上の背骨である小駄良街道に至るためのハブであった。また峠にそびえる白尾山は、栃洞白山神社とともに、藩主が春秋に参詣するほどの別格の信仰を得ていたらしい。山頂にはかつて白尾大権現を祀る堂宇があり、その証拠に堂宇の本尊(十一面観音)は、現在、北側の阿多岐地区の値誓寺におろされている。また、栃洞村よりややくだった対岸、かつての白尾山登拝道には、多屋(大屋)と呼ばれる参詣宿の屋号まで残っており、六ノ里はいわば山里の宿坊とでもたとえられる。

江戸時代中期に入ると、WEB蔵vol.2で特集した「宝暦騒動」(通称郡上一揆)において、 大坪清兵衛は、江戸へ直訴して牢死した義民の一人「栃洞村清兵衛」としても名高い。若い直訴人が多い中、六十を過ぎていたというこの栃洞村の名主は、剣村藤次郎に声をかけられてすぐに応答し、そのまま二人で上京したという逸話すら残っている。4年にわたる裁判闘争において、結果がどうなろうとも声を上げること、団結を固めてたたかい抜くことを郡上一揆の主眼とした根底には、こうした武士から土豪の百姓となった者たちがもっていた誇り高い自治意識や組織力に加え、大坪氏に見られるような文武両道、風流の気勢もあったのではないだろうか。

大坪さんが撮った六ノ里の俯瞰写真を一緒に見ていると、そんな話がぽろぽろとこぼれ出してくる。こんなこともう知らんかな、こういうのがあるんだけど。バッグからはいつの時代か分からない馬鈴や、襖の下貼りから発見された義経の含み状などが造作もなく出てくる。大坪さんが当たり前のように気づいたこと、知っていることに触れ始めると、もうそれまでの自分ではいられない。六ノ里集落が、まったく違う風景として立ち現れてくる。馬や牛の鳴き声が、義経の恨み節やお参りのにぎやかな嬌声が、大坪基清や清兵衛の歌声が聞こえてくる。
大坪良彦さんは語る。さびれる一方だと思っていた故郷に、今若い人が帰って来ている。今こそ撮り語り残していく必要があると。歴史の真っ只中にいるのだと。土地は、じっと待っていては見えてこない。「人に尋ねよ 道を訪ねよ」。そんなことをあらためて思った六ノ里ロケの入り口だった。

本編では、さらに今を生きる六ノ里の方々の言葉に耳をすませながら、ゆっくりと巡っていく予定です。ご期待ください。
配信URLは下記より。




2021.1.31 Vol.4 本編配信URL(プレミアム公開)





紡ぐ「蔵開きを振り返って」

WEB蔵vol.4は、過疎化の激しかった六ノ里集落に今なぜUターンや移住が相次いでいるのか、その謎をひもとくべく、「土地・移住・唄・里山・人」をテーマに六ノ里人をめぐる初のロケ番組を収録し1月31日に配信した。とはいえ、六ノ里人との対談は全て一発どり。思いもしなかった話題や出会いに富んでいた。六ノ里集落を知るにはやはり人を通してしか知ることができない。ここでは、番組では入らなかったこぼれ話を中心に、あらためて六ノ里の魅力に迫ってみたい。

【土地ー地の理、人の利】

白尾山を源流とする牛道川の北側にひろがる棚田群。この集落の土地の特性をより知っているのが、米作りをしているお百姓さんなのではないか、という仮説をもとに、「六ノ里棚田米生産組合」の事務所をたずねた。組合代表の集山政治さんと、六ノ里でのあらゆる地域活動を引っ張る自治会長・出井建雄さんである。テーマである土地の特性についてしつこく聞いていたところ、お二人に地域っていうのはそういうふうにして分かるもんじゃない、とたしなめられた。棚田米生産組合は、過疎化による耕作放棄地を再び米を作る田んぼに戻し、荒れた里にしないことが、獣害や過疎化疲れをむしろ減らすことにつながっているという。標高700メートル前後の寒冷地は、ここ数十年の温暖化によって、米の甘みが寒暖の差によって生まれる栽培適地となっている。また、収量と米の美味しさを数値化した食味値を維持するために、肥料のデータ管理も行うことで、現在「六ノ里棚田米」として郡上で最も美味しいお米として認知されている。田畑を営む者にとっては、こうした自然環境の変化の中で、偶然にも程よくマッチングしているに過ぎないという。

また、かつては今より樹の値段が高く林業が盛んであったため、山の斜面にもひろがっていた田んぼにも次々に杉を植えていた。ところが安価な輸入材によって樹が売れなくなると、気づけば荒れた杉林は家の裏にまで迫り、獣が降りて来やすく、里と山の区分けのない環境に様変わりしていた。現在、地権者に相談しながら、集落の南側の放置林の皆伐を進めることで、かつての明るい里山の状態を部分的に取り戻しつつある。方角や標高、太陽の運行という「地の理」は変わらないが、人間社会が作り出した「人の利」はその都度移ろい、今では「地の理」すらも変化させている。あらためて現在における「地の理」を見きわめ、そこに「利する人」が生まれているのが六ノ里なのだろう。そうやってお話を聞いていた組合事務所では、鉄工所を営む集山さん自作の鋳物ストーブがずっと部屋を温めていた。ストーブの扉には「Mount Agent」と鋳られてある。里で使用する水も薪も山を損ねては、その恵みを受けることができない。私が話していた人とは「山の代理人」なのだった。

【移住ー愉楽、命の運びー】

無農薬栽培農業がしたくて四世代で移住された嶋田幸洋さん、拝殿踊りに強く惹かれて移住した八木洋子さんの話を聞いていて「愉楽の地」にたどり着いたのだと思ってこちらまであたたかい気持ちになったのだが、それでもネガティヴなことに陥ることはなかったのだろうか。嶋田さんは、移住してから最初の5年は林業をやることで土地の特性を知ることにつとめたそうだ。だが、そこで何度か死んでもおかしくないほどの事故にあったという。幸い大きなケガなどに至らなかったものの、他の人ならばそうならないと思える自分の判断の甘さ、弱さを突きつけられたと語る。実際、嶋田さんは2020年の就農一年目にして、多品目の無農薬栽培による野菜の収穫・出荷による成果をあげ、また無農薬無化学肥料が難しいメロンの栽培にも成功している。陽当たりと水はけのよい六ノ里の特性に支えられているとしながらも、有機肥料による土づくりにも余念がない。営む田畑の総面積も就農一年目にして一気に広げられたのは、林業を通して山の中での土地感覚と、それに見合う自分のからだの広さ、速度、体力をリサーチし続けたからではないかと思う。とはいえ、猪突猛進型の嶋田さんを支えているのは家族であり、何げない距離で見守ってくれている地区の人だそうだ。

八木洋子さんも、家探しの時に、六ノ里の人にお世話になったという。その人に教えてもらって条件も合い、目当てにしていた家が他の方に買われてしまい、がっかりして諦めていたところ、なぜかまたその家が売りに出されていた。そのときに洋子さんは、「天の運び」を感じ、それにのっていけば間違いないという確信があったという。こちらが望めば向こうもそれに応じて開かれる、それに身を任せること。実際、その家があるところは、縄文時代の松本遺跡が発掘されたところで、郡上でも珍しい環状列石や、県下最大の石器製作や殻割りに使われたという蜂の巣石が見つかったところだ。洋子さんは、その家から近くのお寺のそばの湧き水を汲みに行き、飲み水に使っている。その湧き水も、ずっと昔から土地の人が使って来た伏流水で、同じ土地に住む者として誰にことわることもなく汲むことができ、近所の人と会えば井戸端会議となるという。これもまた縄文時代と変わらない風景なのかもしれない。

【唄ーでっちびんだの自然態】

「拝殿踊り」を縁に、ずっと親しくさせてもらってきた猪俣元子さん。いつも自然体で、vol.3に続く撮影なのに、聞いたことのない名言・妙言が飛び出した。「でっちびんだ」。何と言ったのか分からず、何度も聞き直した。なぜ六ノ里の拝殿踊りでは、女性が多く、最も楽しそうに唄うのか、そんな問いに、「でっち(男)かびんだ(女)かも分からんようなものが唄っとるんやな」と答える元子さん。それというのも、拝殿おどりと同じルーツをもつ「かき踊り」は、男性しか参加できない豊年祭であるにも関わらず、元子さんは幼いうちから男衆の歌まねをして遊んだ。学校の帰り道にはランドセルにススキを差して、「かき踊り」のシナイを背負う華やかな踊り手たちの真似をして帰ったという。これが男勝りの「でっちびんだ」といわけだ。しかしながら、男性的かという違うし、負けん気が強いわけでも、見栄っ張りというのでもない。拝殿踊りで唄う女性たち、おばあさまたちの雰囲気が優しくてあたたかいのは変わらない。あとは色っぽい唄もたくさん唄うが生々しくはない。これは、六ノ里の人たちに共通する自然態、ちょうどよい他者との距離感なのだ。「素っ気ないけれども、気にはかけとる」と仰られたのも、まことに言い得て妙である。自然体は自分自身でおさまることだが、「自然態」とは相手のことも含んだ、無理のない関係性のことなのだと合点がいった。批判や皮肉ではなく、相手との距離の中で渡せるものがあることを、ここの土地の人たちは何から学んだのだろう。家族や先人からか、厳しくも東西に開けた風土からか、拝殿踊りやかき踊りのような祭り、楽しみからか、人間以外の生き物からだろうか。その全てかもしれない。ここには真似したくなる自然態が確かにある。

【狩猟ー生きていく倫理】

猪俣元子さんの話を聞き終わったとき、午後から話を聞く予定だった猟師の松川哲也さんから電話がかかってきた。今、牛道川の支流のアツラ川で鹿が一頭獲れたという。撮影チームは、昼ごはんを送らせてその渓流に下りていった。猟友会や猟師仲間でのグループ猟も行う一方で、松川さんは銃による単独しのび猟というやり方で、一年の360日以上を山での狩猟に費やしているという。11月から3月にわたる猟期だけではなく、それ以外の期間に定められた獣害駆除にも携わっているのだ。松川さんは、里の田んぼや畑が獣害に遭うことを憂い、土地の先輩に誘われる形で猟師となったが、射止めた動物を全て食肉として活かすための猟を自分に課している人である。これがまったく簡単ではない。日が明けぬうちから山に入り、日が暮れるまでには山から降りるなかで、動物をどこで仕留めるかは人間と動物との知恵比べとなる。今回、松川さんの自宅から近いアツラ川で仕留めたにも関わらず、川側から、軽トラックを停めている林道にまで、ロープで縛って引きずりあげるのに1時間はかかった。内臓はすでに仕留めたところで解体ずみで、川のふちに置いておくと、カラスやキツネたちの餌になるという。男一人の重さはある鹿を、時には何時間も追いかけたせいで、それを引っ張って戻るというのは、ある種の倫理がないとできることではない。「個体数調整」という名目で駆除をされる動物たちをそこで埋葬するほうが、駆除を仕事にする猟師にとっては楽で合理的である。松川さんは、その見えざる倫理を先輩に学んだという。そして、猟においては、六ノ里地区という範囲ではなく、郡上の山川や越前の山あいにも入ってゆく。六ノ里で「獣害」が減ったからといって、それをもって喜べるものではない。他の地域に動物が移動しただけのことでもあるからだ。ゆえに松川さんは、人間の都合で動物を獲ることを、「山の恵みとしていただく」こととしてとらえる。かつて猟は、生きるための、食べるための行為だった。ところがその生きるための猟が必須ではなくなったときに、それを再び、その全てを食べるために押し戻しているところに、私は「生きていく倫理」を見た。果たしてそれは一人だけでできることではないだろう。その動物を解体する人、加工や調理をする人、食べる人や買う人という仲間たち、循環する共同体がないと無理がきてしまうだろう。猟師の高齢化による引退も危ぶまれている中、猟師はもちろんのこと、解体屋さんや飲食店といった仲間づくりに向けて行動し、猟の日々をブログに綴る松川さんもまた、六ノ里のいわば「里山の代理人」とでも言うべき存在になりつつある。

【人ー背中の伝承ー】

もしコロナ禍でなかったら、緊急事態宣言が出ていなかったら、番組の最後は、白尾山荘での宴会となるはずだった。これまでインタヴューしてきた人も一堂に会し、美谷添尚子さんの冬越えのご馳走に舌鼓を打つ映像が配信されるはずだった。白尾山の麓にあるここは、牛道川源流の豊富な水を取り入れ、産卵から養殖、販売にいたる養魚場を営んでいる。尚子さんはそこに嫁いで50年が経つ。白尾山荘は、その白尾園養魚場の敷地内に、昭和40年頃に百姓屋敷を移築し、山菜や川魚の季節の料理を振る舞う古民家別荘なのだ。ここで、どれほど食べさせてもらってきたのだろう。この里山の命を美味しく食べるために手間暇を惜しまない尚子さんには、本当に頭が下がる思いがする。いつ訪ねても何かを仕込んでいるからだ。そして、それはただ山荘のお客さんのためだけではなく、家族が食べ、何かと人に配るための仕込みなのだ。尚子さんはいつも無数の命を育む大女将のように見えてくる。

そんな尚子さんが、6人の子供を産んだ話とは別に、番組では入れられなかったこぼれ話があった。それは、義父母を家で看取った、というものだった。人には、人それぞれの家の事情からどのような看取りをするかを決めなくてはならない。私には、命を活かす食べ物を振る舞う尚子さんと、死にゆく者の最期を、その人の家で、その人の希望に従って看取ろうとする尚子さんが、まったく同じエネルギーを宿していることを感じさせられた。こんな見習いたいと思う背中があることを、私はありがたいと思う。そうしてみれば、六ノ里で出逢ってきた人々が、つくづく先人・先輩の尊敬すべき背中を語ってくれることに気づかされる。私たちは、果たして同じようにそれに続くことは可能だろうか。それはやってみなければ分からない。だが、六ノ里には、そうした先人・先輩の背中がある。それだけでも心の支えであり、安心して生きることができるような気がする。

 全国で同じような過疎化が進んでいる中、六ノ里集落に人が集まっているのは、その恵まれた土地の理に気づき、そして住み続けるのには、背中で伝承していける人のつながりが存在しているからだろう。私は峠を越えた集落に住んでいるが、これからもずっと六ノ里に通うことになりそうだ。






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