【第4章】「『郡上スクリーン印刷伝』から見えてくる産業イノベーション」

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さて、よく言われている「スクリーン印刷発祥の地 郡上」というのは多少語弊があるかもしれない。正確に言えば「スクリーン印刷産業発祥の地」と言える。

戦後に郡上八幡でロウ原紙を起業した美濃紙業所(現ミノグループ)の塩谷広五郎が投資したのが、岩手出身の菅野一郎が開発していたシルクスクリーン用インキであり、それによって今も郡上には20社以上のスクリーン印刷工会社があるからだ。

広五郎が独特だったのは、ただこの新しい印刷機の宣伝や営業を行ったのではなく、「グランド印刷研究所」を立ち上げて、いわばスクリーン印刷の職業訓練学校を開いたことだった。

食事と寝る場所を無償で提供するという触れ込みで、全国から研究生を募集し、独立起業をすすめる。彼らが全国に羽ばたくことで、菅野一郎が新しく開発していた油性インクの取引が広がっていくという寸法だ。

今も郡上、日本各地にある「グランド」の名がついたスクリーン会社は、この郡上のスクリーン印刷勃興期に、「グランド印刷研究所」で学んだことに由来がある。だからこそ、スクリーン印刷産業発祥の地であり、揺籃の地。それが郡上なのだ。

この無償の研究所は昭和26年から18年も継続され延べ2500人が巣立ったと、高垣良平さんがまとめた『郡上スクリーン印刷伝』(ROFLO DESIGN)で触れられている。

今も郡上、日本各地にある「グランド」の名がついたスクリーン会社は、この郡上のスクリーン印刷勃興期に、「グランド印刷研究所」で学んだり、「グランド印刷機」を使っていたことに由来がある。だからこそ、スクリーン印刷産業発祥の地であり、揺籃の地。それが郡上なのだ。

スクリーン印刷の起源を遡ると、古代中国の絹布の版によるプリントに始まり、平安期には成立していた着物の絵柄を染めるための伊勢型紙、江戸期の琉球紅型、明治期の型友禅があげられる。その明治時代に、こうした型紙に絹の紗を張ることを考案した富山高岡のものが、ジャパニーズ・ステンシルとして欧米から世界に広がったという。

この紗が張られた時点で、ただ紙や布などの媒体に空けた穴から染めたり、色を差したりするステンシル(型染め)から、型紙を紗版に固着させるスクリーン印刷と呼べる構造に変わっていったのだろう。「スクリーン印刷」の特許をとったのは、イギリスのサミュエル・シモンだが、大正時代にはアメリカ帰りの万石和喜政が、「重合製版法」の名で特許をとっており、これがシルクスクリーン印刷として定着。菅野一郎の「グランド印刷」はそれに改良を加えたものということになる。

さて、日本の高度経済成長と響きあうように、印刷産業も大規模な大量生産に応じて発展した。また木や紙だけでなく、ビニールや金属、プラスティックなど社会に登場するありとあらゆる素材の商品や看板、目に触れない部品にまでスクリーン印刷が利用されている。美濃紙業所に始まった現在のミノグループは、数兆円規模のエレクトロニクス産業の主幹である電子回路部品、プリント基板を刷るスクリーン印刷機の製造や、某大手のゲームコントローラーへの曲面へのプリントなど、どこにも出来ない印刷装置の設計とインクの開発によって今も鎬を削っている。

日本でここまでステンシルからシルクスクリーン印刷の開発、改良が続いたのは、版に使われる絹が自給されていたこと、着物などの型染めの伝統に加え、鉄筆でガリガリと文字を刻んで印刷するガリ版(謄写版印刷)の圧倒的な普及があったことも、先述の『郡上スクリーン印刷伝』にはまとめてられている。

ガリ版の「版」となる謄写版原紙は、ロウを引いた雁皮紙、つまり美濃和紙から作られる。塩谷広五郎の美濃紙業所がそのロウ原紙作りから起業したことは上述したが、ここには土地の素材の利用、投資家の先見と革新的な技術者の出会い、そして養成所から展開された事業経営など幾重もの掛け合わせがあり、そこから生まれた手軽で新たな方法と商品は圧倒的な普及をもたらした。

それは「グランド印刷」という名前とも響きあうように、GRAND(遠大な)イノヴェーションが起こったと見るべきだろう。次章からは、今も活躍している郡上のスクリーン印刷会社を紹介していく。そこには、現代の機械化、無人化とは全く違った風景が、スキージーという刷り道具を使うことによる、手刷りの先鋭化の風景があった。

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