風土がかもす酒造り 〜「母情」に織り重なる人の情〜
目次
【郡上藩MONO蔵屋敷vol.1 -1】
どこか懐かしい蔵
私が平野醸造に足を踏み入れることになったのは、2018年から始まった12月の蔵開きに誘われたからだった。
「ひらかれた蔵」を掲げて新しい酒造りや人との関係づくりを始めていた平野醸造と蔵開き実行委員会に、杉玉の架け替え式に郡上の祝い歌をうたってほしいと頼まれたのだ。歌もまた酒と同じく神様への捧げ物だから、師走の寒さも相まって身が引き締まる思いだった。
それから、個人的に郡上の郷土食や発酵食を調べたり食べたりしているうちに、そうした土地の味に最も合うのが平野醸造の「母情」というお酒だった。このときの発見は今も不思議な記憶として残っている。
お酒はそんなに飲めなくても、土地と風味の親和関係が体で分かると、平野醸造という蔵や、そこで起きている人間模様が、何か懐かしいような、土地で育まれてきた見えない何かを物語っていると感じられたからだった。
それをひもとくのが、今回のドキュメント動画「風土がかもす酒造り」ということになるだろう。自分も蔵人の一員であるような、母情の盃片手に何度も見返したくなるモノに仕上がっていることがまことに楽しみである。
稲穂が色づくときに現れるもの
「稲刈りを撮ってもいいですか?」と平野醸造の杜氏(とうじ)である日置さんにたずねたら、
「いややな〜(笑)、だってボタ(畔)の草刈ってないから」とのこと。
そういえばお盆を過ぎて、だんだん色づき始めた稲穂をよそに、いつもは小ざっぱりと刈られている畦道や土手の草が生えたままだ。
「草を刈ると、籾に虫がつくんよ。」自然農法で畑の畝の草を半分残すことで虫のいどころや逃げ場を確保し、なるべく作物に集中させないような手入れを教えてもらったことがある。
かつて農薬がなかった時代の農業では一般的な知恵だったに違いないが、そのように教えられて田園風景を見る眼が変わった。ゴルフ場のグリーンのように刈られた田園には、秩序だった美しさが存在するが、今回のドキュメントで登場する田園には、まさしく収穫前の田と草の関係が映っていることだろう。
それはつながりの美しさとして見えてくるものだ。多くの参加者とともに自らの田んぼでお米を育て、新ブランドのお酒を仕込む「ひらかれた蔵」平野醸造は、草葉の陰で啼いている虫とも付き合っているといえるのではないだろうか。
平野醸造のやわらかな伝統
時が平成に入った約30年前、現社長である平野雄三さんは、平野醸造を継ぐために名古屋から我が家である平野醸造に帰ってきた。
自分が継ぐとは夢にも思わず、また跡取りとして育てられた記憶もないという雄三さんだが、三代目社長の父と母の熱い酒蔵についての議論は日常茶飯事で、それでも楽しそうな2人の雰囲気が強く記憶に残っていると言う。
「なんというか、喧嘩のように仕事の話をしとっても、終わるとあっけらかんとして、楽しそうに世間話をしとるんですよね。」平野醸造では、社長や女将は基本的に販売や営業、経理を担当し、酒造りは杜氏を責任者として蔵人に任せている。酒蔵の経営については、家に戻る前に関東で修行をして準備を整えた。だが、商売についてはやはり父母の背中に教えてもらったという。
「世間話とかそういう無駄話が人をの輪を作るのは学んだような感じがしますね。やっぱり輪を作ってくっていうか、そん中から本質が開かれるっていうか。」雄三さんにとっては、平野醸造が近年「ひらかれた蔵」を掲げてイベントや酒造りを通して人を呼び込む前から、ここは地元の買い手や地域に開かれ、毎週のように大型観光バスを受け入れてきた酒蔵であったそうだ。
今、日置杜氏による開かれた酒造りや、生きた伝説ともいえる女将のエネルギーに感化された若者たちが続々と平野醸造に引き込まれていくのを見ていても、それはかつてから存在していた平野醸造のやわらかな伝統なのかもしれない。
おそらく酒蔵の敷居やイメージは、その時その時代を生きる私たちが持つ意識によって、酒蔵自身は変わっていなくとも、高くなったり低くなったりしているのだろう。「やっぱり、ここの水で仕込んだ地酒を飲んでもらいたいです。」自分は話すのが苦手という雄三社長の誠実な語り口の中に、お酒を人に売ることの喜びが感じられて、私は良いお酒を飲んだように気持ちよく酔った気がした。
水と歌の湧きいづる土地
平野醸造を取材した時に、誰もが異口同音に言ったのは、「ここには水があるから」という話だった。それもただの水ではない。
平野醸造のそばの栗巣川を遡っていくと両岸に東西に伸びる山稜のあちこちから豊かな清水が湧き出ている。土地の人は川端であると同時に山裾に住むことで、この湧水とともに暮らし続けてきた。これは、縄文時代の遺物が出ることからもわかる通り、平野のない郡上における河岸段丘上の暮らしなのだ。
「そこの伏流水を80メートル掘って汲み上げ、1.5キロほどかけて酒蔵に引き込んどるんです。それを古今伝授の里の水と呼んで酒造りに使っとります。」縄文から下って時は13世紀、千葉家を始祖とする東氏が当時の郡上である山田の庄に入ってきた。最も長く城を構えたのが、「古今伝授の里」といわれる大和町牧地区。武家でありながら「古今伝授」という宮廷和歌の秘伝を継ぎ伝えた東氏は、230年8代に渡って居城し、この地をこよなく愛した。
栗巣川左岸の山並みに続く東氏の篠脇城跡を30分かけて登ると、500メートルを越える山頂付近にも関わらず井戸の跡がある。そして、未だにこの城下は、広葉樹と針葉樹の入り混じる山並から豊富な山水や湧水が流れている豊かな土地なのだ。それを念頭においてか、九代目東常縁は古今伝授を連歌師宗祗に講義し終わったとき、別れの歌を詠んでいる。
もみじ葉の流るる龍田白雲の 花のみよし野思ひ忘るな龍田川やみよし野など、古今和歌集における見立てがさまざに散りばめられているが、郡上大和ならば、この城下の山水を集めて流れる栗巣川を、春になれば桜でけぶる栗巣川を思い浮かべるのは私だけではないだろうと思う。
常縁は愛弟子への惜別の歌にこの土地の記憶を込めたに違いない。「うちの水いっぺん飲んでみてよ。どえらい美味いもん。とにかく金っ気がなくて、全然鉄分のない軟水やから、酒造りに向いとるんやね」日置杜氏も、平野醸造と同じこの牧地区の山裾から湧き出る水を自宅に引き入れているが、とてつもなく冷たくて美味しい。身も心も洗われる気がする。
東氏も平野醸造も古今を越えて、その水の清らかさ、土地の記憶を、歌やお酒で伝えていると言えるのかもしれない。
母情に秘められた女将の物語
今年卒寿を迎えた平野醸造女将の平野孝子さん。現在は施設で療養中のため、現場には立っていないが、生きた女将伝説は今も語り草となって人を突き動かしている。
平野醸造の銘酒「母情」が中部や関東圏に知られるようになったのは、百貨店全盛期の卸があったからだそうだ。当時は、百貨店専属のバイヤーとのタッグもさることながら、お酒コーナーの独自企画や物産展などの売り出しイベントが必ずあり、孝子さんは精力的にそうした売り場へ出陣しては、誰をも巻き込む話ぶりで多くの人を楽しませたという。
百貨店にも平野醸造にとっても、そして地元の町民祭や各種イベントにおいても、黒のベレー帽をトレードマークに、有名な広告塔となっていた孝子さん。ややもすれば他の売店がさびしくなってしまうほど、女将に人が集まる魅力とは何だったのだろう。一つは、「母情」という銘柄が、平野醸造初代の女将じゅうの温情からきていることを孝子さんが大切にしていることである。明治期、土地の貧しい者たちに衣食住を問わず様々な施しをしたことから「おじゅう様」と慕われた母を目の当たりにしていた2代目が、それまでの銘酒「金露」を「母情」に変えたのだ。
今回、孝子さんをオマージュした母情の純米大吟醸が完成したときも、孝子さんは「おばあさん(おじゅう)のおかげだと思う」と語ってくれた。初代女将のエネルギーが今も私たちを突き動かしているというのだ。
もう一つは、売るということに全てをかけていたということだろう。これも百貨店の売り出しイベントで、やはり衆目を集めていた女将さんに、風体のよからぬ男たちが荒々しくイチャモンをつけてきた。女将は持ち前の男気で、こっちは命をかけてお酒を売っているのだ、お前たちにとやかく言われる筋合いはない、と啖呵を切ってみせた。すると男たちは、手のひらを返したように女将に惚れ込み、それからはむしろお得意様になってくれた、という話を雄三社長が語ってくれた。女将のこの気丈さは、当時平野醸造が経営難であったことも関係しているのかもしれない。
そして、この広く熱い販売網によって業績は回復した。お酒を作るには資本、体力、勇気がいる。だが、そのお酒を売るには、それ以上のエネルギーがかかる。孝子さんは、名古屋が出身地だが、いわゆる郡上人のネイティヴ・マインド「おかげさま」と「なにくそ」の精神が、その90歳の身体に注がれているように感じる。それは、平野醸造がもつ風土と記憶を孝子さんなりに時間をかけて受け止め続けてきたからに違いない。
約150年続く造り酒屋を、背負う重みではなく、おしゃべりの楽しさで人を包んだ孝子さん。今度お会いしたら、話題になりやすい男勝りな伝説や酒蔵の話だけでなく、どんな女の子だったのか、何が好きで嫌いだったのか、お酒片手に聞いてみたいと思った。
女将をイメージして仕込まれた純米大吟醸が、美しく華々しい味わいがするがゆえに。
星が瞬くとき流るる酒
近年、日本酒の兄弟として注目を浴びているお酒がある。
そう、どぶろくである。
漢字では濁酒と書く。個人的に里唄を探して土地の古老をたずねたとき、「楽しみが唄とドブしかなかったんやで。」と言われて面食らったことがある。どぶろくのことだと分からなかったのだ。そして私自身が当時濁酒を飲んだことすらなかった。それとは反対に戦後は、催事祭礼以外では清酒を飲んだことがなく、むしろ濁酒しか飲んだことがなかった者も多くいたという。
どうしてなのか。
「清酒は高うて買えなんだでな。」と先の古老が教えてくれた。そのかわり、郡上のお百姓は誰もが自家製のどぶろくを仕込んで味自慢をしあっていたらしい。米に麹菌をつけて糖化させ、味噌蔵や納屋に浮遊している酵母菌がうまくつけば、それがアルコールを発生させるというからくり。
錬金術ならぬ練酒術である。逆に酵母菌がつかなければ、ただただ酸っぱいシロモノになってしまう。そして、それを濾過すれば清酒に、濾さなければ濁酒である。なんとその濁酒が登場する祭りが、この郡上大和の明建神社に受け継がれている。第三章で紹介した東氏が氏神として信仰する妙見大菩薩の縁日が旧暦の七月七日、すなわち星祭りである。
現在は八月七日に行われるこの「七日祭(なぬかびまつり)」は、世襲で受け継ぐ宮座制で、代々続く家々で祭りの役を担っている。その神事と中世の田楽ならではの「野祭り」の前に、濁酒が振る舞われる。この濁酒を作る役をつとめているのが、平野醸造の日置杜氏なのだ。原料はすべて平野醸造の酒造りと同じもの。とはいえ祭の濁酒は設備のない社務所で昔ながらに作るならいであるから、いかに酸っぱくならないようにするか気を使うという。
日置杜氏は語る。「不思議な縁で。まだ杜氏になる前やったんやけんど、その役をやらせてもらうことになって。」だがこのところは、コロナ禍のため神事のみで、特に盛り上がる杵振りや獅子起こしなどの野祭りが催行されず、濁酒の振る舞いも行われていない。その一方で母情と言う地酒は、水源地に立つ明建神社はもちろんのこと、郡上の各白山神社の祭りやお祝い事で必ず奉納される清酒である。平野醸造の酒造りは、人に買って飲んでもらうための商品であると同時に、稲の神や土地のカミサマに捧げるためのカミゴトである。
だからこそ、気ままなものではなく、銘柄によって作り分けられた高品質の酒造りが要求される。郡上の人たちは、平野醸造が毎年仕込む新酒を楽しみに待つとともに、再び七日祭で濁酒を味わえる日が来ることを願っているだろう。
夏の天の河と濁酒はもしかしたらつながっていて、その天から濾過されたものが、清酒母情だとしたら。空の広い郡上大和の風景は、そんな夢想をゆるしてくれるところである。
ひびきあう酒造り
平野醸造が「ひらかれた蔵」を掲げて2018年の12月に蔵開きのイベントを始めたとき、ある女性がそこにおとずれていた。平野の新酒はもちろんのこと、祝い唄で杉玉を掛けかえることに強く惹かれたという。
ところがたどり着くのが遅くなり、酒蔵見学の時間は終わっていたにも関わらず、気さくな日置杜氏に声をかけられ、すっかり酒蔵を見せてもらうことになった。それが、後に平野醸造内で新ブランドを立ち上げる深尾和代さんだった。
もともとお酒造りから音楽、施術から白山信仰まで実に幅広い好奇心で日本各地、そして郡上を駆け巡っていた深尾さんは、この蔵開きをきっかけに平野醸造が立つ郡上大和に足繁く通うようになった。「栗巣川っていう谷と両側の山から流れてくる風とかエネルギーが、この平野醸造で渦を巻いている感じがして。私もそれに巻き込まれてます。笑」特にその風土と一体感を持ったのが、平野醸造の取水地でもある牧集落で行われる酒米づくりだった。
酒米作りを管理していた下平さんに、この日も来いこの日も来いよと受け入れられ、他の仲間たちと米作りから収穫まで参加して作り上げる「一から百酒」という新銘柄を、日置杜氏のもとで仕込むことになったのである。そして郡上カンパニーという共同創業×移住をマッチングするプロジェクトで、深尾さんは平野醸造の蔵人となり、愛知県から郡上大和に移住した。
「なんというか心地よいお風呂に入ってるよう、またここに帰りたい、そんな気持ちになれるところなんですよね。」平野醸造につとめるようになって間もなく、女将の平野孝子さんから突然、初代の女将おじゅうさんの話をまくしたてられたことがあった。
女将伝説が銘酒「母情」を生んだ話も感じ入ったが、深尾さんは孝子さんの背後に、無数の花がどこまでも美しく咲き広がるビジョンを見てしまったという。
だから、誰もが孝子さんに魅せられているのだと。深尾さんのビジョンは、その女性のエネルギーの系譜を受け継いでいるかもしれない。昨年「日月五星」という新ブランドを立ち上げ、蔵に眠っていた木桶仕込みの復活プロジェクトに始まり、その年その年の天候や想いで味が変化してゆく「風土酒」をリリースするなど、平野醸造の「ひらかれた蔵」を体現している一人である。「自分でやっているという気がしなくて。ここの蔵だけじゃなく、地域、郡上の人がすごく協力してくれているので。」平野醸造の大吟醸が好きで、かつて郡上の蕎麦屋でよく飲んだというが、10年ぶりの記念酒「純米大吟醸」は、自身も仕込みに加わった。
生原酒を吊り布で丁寧に搾るなかで、土地と人が響きあうリアルな酒が、今出来ているのだという深い実感があった。「今回の純米大吟醸は、ほんとに孝子さんらしい華々しい味に仕上がってると思います。」「ひびきあう酒造り」が深尾さんの最大のテーマだが、平野醸造の「母情」こそ響き合いの先達であるお酒なのではないか。
深尾さんの怒涛の挑戦が、あらためて平野醸造の記憶と深い味わいを呼び起こしてくれている気がするのは私だけではないだろうと思う。
平野醸造に惚れてしまった人の言い訳
「作り手はね、出来立ての酒が飲めるんですよ。」
去年の冬、日置杜氏に蔵人として誘われて純米大吟醸を仕込むことになった興膳さんは、根っからのお酒好き。そもそものきっかけは創業と移住促進を進める「郡上カンパニー」による日置杜氏と深尾さんのコラボレーションを応援しているうちに、自らも酒造りをしてみたくなってしまったことから。もともと平野醸造のお酒は好きだったが、作り手となって出来立ての酒が飲めるということほど、幸せかつ悩ましいことはないということが分かってきた。
「昨日まで最高の酒ができつつあると思っていたら、1日で発酵が進んで味のピークを過ぎてしまったりするんよね。」
どこで発酵を止めるかという選択ほど難しいものはない。データ、経験則、勘、あるゆる要素を体に通して決断しなければならない難しさ。興膳さんは、「郡上里山株式会社」の代表をつとめ、自然体験企画や、狩猟の6次産業化、林業のフォロー事業など、里山をめいいっぱい遊び、知り、育んでいく里山保全の活動を仕事として行ってきた。その出発点は、どれもが面白そうだから。掻き立てられる好奇心や思い付きを練り上げて事業化するところに本領を発揮してきた。お酒造りは、その一つなのだろうか。
「新しいことには何でも興味をもつんだけど、やっぱり日置さんに出会って地元の蔵人が杜氏になるってすごいことじゃないですか。それで色んな人が集まってきてるのを見て、これは絶対面白くなるなって。」
それを感じていたのは興膳さんだけではなかった。地酒「母情」を飲みながら語り合う郡上大和の若手経営者の飲み会で、必ず話題にのぼるのが平野醸造を応援したいということと、女将さんである孝子さんの話だった。そんなとき、日置杜氏から10年ぶりの「純米大吟醸」を作りたいという話を聞いた興膳さんは、その仲間たちとともに、別格の純米大吟醸にふさわしい女将さんをオマージュする記念ボトルにできないかと考えた。ラベルは、もちろん女将さんの絵で。リリースの取材や宣伝は興膳さんの仲間たちで行った。
「日置さんがこだわりにこだわってもう寝ずの番で、孝子さんらしい、甘めの女性らしい味を引き出してくれたなって。」
2021年5月にリリースされた「純米大吟醸」は価格からいっても高級酒、プレミアものである。ふだんは母情の辛口が好みで、これを冬に熱燗で飲むのがとにかく好きだという興膳さんにとっても、これまでレギュラー酒、日々のお酒を作り続けてきた平野醸造にとっても、純米大吟醸の完成は、大きなターニングポイントになっているという。平野醸造のお酒の幅が広がることで、それと何を一緒に食べれば味わいが深くなるのか、ということも酒屋や飲み屋の提供と関係してくるからだ。そして、興膳さんは野心家でもある。
「やっぱり郡上の飲み屋で、オール郡上の酒になるくらいじゃないとなって。その土地に来てその土地のお酒を飲めるっていうのが大事だと思う。」
今年も11月から蔵人として仕込みに入る興膳さんだが、平野醸造の可能性はお酒にとどまらない、と話し始めた。今度はどんなプロジェクトが始まるのだろう。いつだってベースとなる銘酒「母情」があるからひらかれるものがある。ここにも一人、「ひらかれた蔵」を体現する人がいる。
母情の半纏をまとう興膳さんがいやに板についていて、なんだか平野醸造の未来を見ているようだった。
無数のおもかげで飲む極上のお酒
「10年前に岩手に行ったんすわ。震災の3ヶ月後に3人で役に立てんかなって、それで酒蔵も3件ぐらいまわったんかな。」
そのとき、蔵人として平野醸造につとめて10年になっていた日置義浩さんは、2011年の6月に復興支援でたずねた岩手のとある酒蔵に感動させられた。地域の人が株主、集落のお百姓がこんなお米を作って見たから試して見てほしいという敷居の低さ、そして蔵人の意見を吸い上げるような社長がいた。酒蔵の規模も平野醸造と同じくらいだった。支援に行ったはずが応援されたような、自分の進む道が見えたような邂逅だった。
「こういう開けた蔵にしようっていう自分のコンセプトが生まれた。」
酒造りに携わる蔵人の長である杜氏(とうじ)に日置さんがなったのは4年前。平野醸造の社長、女将に頼み込んでなんとか認められると、県内の別の酒蔵に何度も断られながらも、修行を重ねることができた。
自らの酒造りを教える杜氏はそういない。それは自分の蔵だからこそ蓄積できるデータを漏らさないのと同時に、経験でしか分からない杜氏の仕事を教えられるものでもないからだろう。こうして2017年に平野醸造始まって以来の地元の杜氏が生まれた。
「だから酒造りも前の杜氏さんとちょっと違うと思うし、蔵癖は残ってると思うけど味は多少違うと思う。」
だからこそ杜氏を変える、杜氏が変わるというのは、そこの酒蔵にとっての一大事であり生命線である。だが、一方で「蔵癖」も存在する。どのような味を目指しても、そこの酒蔵のクセ、らしさが生まれるという「蔵癖」。その酒蔵で生きてきた酵母菌が、仕事始めにどんなにホルマリンで蔵を洗浄しても生き残って味に左右するという。
平野醸造では酸が出やすい「蔵癖」があると感じる日置杜氏は、できるだけすっきりと綺麗な味わいを目指す。しかし、その酸味はかえって熱燗にすると美味しくもなる。日本酒が面白いのは、その飲み方で味が変わる、ましてや温めて飲める稀有なアルコールだからなのかもしれない。
「そうはいってもいつ搾ろうかっていうのが難しいね。ものによってはやんちゃ坊主みたいにガーッと発酵したり、全然ショボーンとなったり結構あるので。」
お酒造りというなんだか感覚や勘が活きるのかと思いきや、データと常ににらめっこしてからの決断が杜氏の仕事でもあるのだ。驚くことは、日置さんの前職がシーケンサーのプログラマーだったということだ。いわゆる自動制御システムを作る職人の腕を活かし、酒蔵の屋根を冷やすスプリンクラーや、酒米を洗う工程についても自作の制御盤で自動管理している。
もちろん酒蔵をたずねても、そんなハイテクなシステムがあるとは言われないと気づかない。だが、機械と人間、温度(データ)と酒気といったように世界を二つに分けることができない時空に、日置杜氏が立っていることが面白い。いわば酒造りは、その酒蔵とシンクロすることに醍醐味があるのかもしれない。そのシンクロの波が2021年にやってきた。
「女将さんがちょうど米寿(88歳)の時に純米大吟醸を作ったらどうやって発案は自分にあったんだけど結局できずに今年になって。まあ米寿が卒寿になったっていう(笑)。」
日置さんのもとに人が集まるのは、えてしてこんな気楽な雰囲気が杜氏にあふれているからだと思う。コロナ禍で祭りや祝い事がほとんどなくなり、お酒の出荷量や仕込み量は激減。「ひらかれた蔵」にまつわるイベントも思うように開催できないなか、平野醸造がリリースしたのが、日本酒でも高級酒となる「母情」の純米大吟醸。新しく参画している蔵人の深尾さんや興膳さんもともに仕込んだこの「母情」は、「平野醸造」の今と始まりの歴史を想起させ、女将のエネルギーが乗り移った新作である。
「できりゃあ、いっぱいだけで十分なやつでなく、もういっぱい、もういっぱいっていうお酒を作りたいんよな。」
いつもこの言葉で酒造りを語る日置杜氏だが、今回は日置さんの周りに無数に集まる人々が、もう一杯と言っているような気がして私は鳥肌が立った。ひらかれた蔵とは、無数の見えない面影を宿した酒蔵でもあるのだ。
その土地のことをお酒にたずねる幸せ
その土地のお酒を買う、お酒を飲むとは、いったいどういうことなのだろう。
このたびの取材で、平野醸造につとめる人、その酒蔵を取り巻く人たち、地下水、見えない菌や生き物たちに触れ合う中で、そのような場から生まれた地酒を飲み交わすシーンが、以前とは違って思い出されてくる。
杜氏や蔵人から、今年の天気の話、お米づくりの話、酵母菌の話が、我が子の寝顔や成長を見守るかのように盃片手に湧いてくる。飲み手は、それらを自分の生活や仕事、季節感に重ね合わせながら、そのお酒の味について談義し、まだ見ぬ地酒の可能性を探り合う。お互いにお酒をなかだちとして、足もとの風土の機嫌、自然の機微を確かめあっているようだ。
もしお酒の幸せな飲み方というものがあるのだとしたら、たとえば今年仕込まれた「母情」を、「純米大吟醸」を味わってみるとき、去年一年の風景が、平野醸造の約150年の時間が、栗巣川の風や山の微笑みが、ふわりと感じられるような飲み方なのかもしれない。
ゆえに、これまで書いてきた9章を越えて、10年ぶりの純米大吟醸の味わいそれだけを、語りたい誘惑に駆られる。だがそれはとっておこう。あなたが実際に口にするまで、それが見せる風景をただ純粋に味わってもらうために。